「ヤブニラミ珈琲学」カテゴリーアーカイブ

1974年8月~1975年12月 (株)日本珈琲販売共同機構 創業者 故 山内豊之氏 コラム 全17号

東京の珈琲屋と地方の珈琲屋


1975年6月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
珈琲共和国1975年6月
珈琲共和国1975年6月

 先月、私は郷里の高知へ帰りました。
 朝、羽田を発ち、翌日の夕方には高知を離れるという急ぎの旅でしたから、久し振りの郷里の雰囲気を味わうわけにはいきませんでしたが、それでも高知のコーヒーの味だけはホテルの喫茶店など4、5店で楽しませてもらいました。
 高知というところは、日本でも有名な酒飲みの県で、かく申す私も上京するまでは典型的な左党であったのです。しかし、その反面、喫茶店の数は人口に比例して多く、昭和46年の通産省の統計では、人口一人当たりの一年間に喫茶店で使用するお金の額は名古屋、神戸に次いで3番目という記録が残っています。
 もっとも、喫茶店のメニューも、東京あたりの店と違ってコーヒー中心というのでなく、アイスクリームやかき氷など幅広い飲物が用意されているようです。
 私は今回2年ぶりに行ったのですが、それでも最近ではコーヒー専門店などもできているようで、私もそのような店を利用させてもらいました。
 さて、その感想なのですが、一口にいって、コーヒーの味はまったくいただけませんでしたが(まず濃過ぎて、酸が強くて、渋い、昔ながらの喫茶店のコーヒーの味),そのサービスの良さは東京の喫茶店では味わえない人情深豊かさがありました。
 マナー自体はあまり良くないのですが、それは無知や土地の習慣から来ているもので、私どもの方で誤解しない限り十分従業員の思いやりが感じられる応対でした。
 地方で私が旅をするたびに感じることは、ことコーヒーに関しては、一歩東京を離れるとガックリ格差があるということです。最近では、地方のちょっとした町へ行くと、地価や工事代の高い東京ではめったにお目にかかれないような立派な珈琲店があったりします。
 しかし、コーヒーの味ときたらその店が鳴物入りで宣伝したり、その店の経営者が自信たっぷりであったりするわりには、いい加減なものが多いので困ります。
 私は、東京にいるときはそれほどコーヒーを飲みたいとは思いませんが、東京を離れるとも猛烈にコーヒーが飲みたくなるクセがあります。そんなとき、なるべくコーヒーの美味しそうな店を探して入るのですが、大かた見かけ倒しの珈琲店で、どうしても最後まで飲みきれず、飲み残すケースが多くなります。すると、逆に余計にコーヒーが飲みたくなり、また店を探すということで、またまた失望の繰返しを味わうということが少なくないのですが、どうもこれにはたまりません。そしてコーヒーの味についていえば、東京へも聞こえているような有名な珈琲店のコーヒーほどうまくないようです。
 結局、地方へ行きますと、東京地区のようにコーヒー豆の卸売業者間の競争が激しくなく、大手業者がその地方の市場の大半を占有し、その残りを地方の業者が押さえて、事実上の独占的販売体制ができているケースが多く、そのためコーヒーの味で競合する余地が残されていなくて、インテリアだとか、単なる名声で勝負するほかにないからだと思います。
 結局、高知への旅の間で一番美味しかったのは、従兄の奥さんに淹れてもらったネスカフェのゴールドブレンドだったのですが、私はそこで改めて、なぜわが国のコーヒーの60パーセント以上もが、インスタントコーヒーで占有されているのかわかった気がしました。
 高知にも、私の従兄の子供達など東京で何年かの生活を送った人達がいて、ぽえむのコーヒーを愛飲してくれており(東京の知人に送ってもらっている)、なぜ、郷里の高知へぽえむを出さないのかと責められたのですが、そのような体験を通じて私は、なぜぽえむのコーヒーが地方でウケたのかがわかりました。
 それは、地方におけるコーヒーの販売体制があまりにも寡占化されており、客が味を選ぶ自由さがないからだと思います。そういった意味で、私はコーヒーの美味しさを伝えるチャンスを大衆に与えるという意味でも、ぽえむの地方出店を促進する必要があると、感じました。

消費者米価とコーヒー二杯半分の値段


1975年8月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
珈琲共和国1975年8月
珈琲共和国1975年8月

 過日、私のところへ日本経済新聞のN記者から電話がかかってきました。
 その要件は「よくたかがコーヒー一杯分の金額」という比喩をきくが、そのことについてどう思うか、ということでした。
 その電話を受けて正直な話、私はまた消費者米価の話かとウンザリし腹立だしくもありました。
 新聞が伝えるところによりますと、消費者米価の値上げ分は「コーヒー二杯半分を節約したらよい」とのことですが、これで一体われわれは何杯分のコーヒーを節約させられたでしょうか。
 政府や米価審議会の方々は、一日に何杯もコーヒーを召し上がっているのでしょうが、われわれ庶民というものは、一日に一回喫茶店でコーヒーを飲むというのが精一杯というところですから、こう何年も続けて節約させられれば一体月に何回コーヒーが飲めるのでしょうか。
 そのささやかな楽しみさえも奪ってシャーシャーとしているお歴々の無神経さには腹が立つより呆れてしまいます。
 そもそも、われわれ庶民がコーヒーを喫茶店で飲むということは、無駄な飲み物をただ飲むというのとは大分意味が違うと思います。
 まず、わが国で喫茶店という業態が異常発達した背景は、住宅やオフィスを含めた住全体の貧しさからきているものです。
 政府や米価審議会の委員の方達は御住居も立派で、オフィスにも個室をお持ちでしょうが、庶民というものは、家に帰ればよくて3DKの団地住まい、会社では窮屈なオフィス以外にせいぜい息抜きをするのは、ビルの屋上か喫茶店ぐらいのものなのです。
 ですから、その喫茶店で飲むコーヒー代を節約するというのは、ごくささやかな憩いの時間とスペースを購うことを止めろということと同じことでしょう。
 そんな楽しみさえも庶民に与えることのできない為政者は、無能という以外表現の仕様がないと思います。
 どうもわが国の官僚や政治家や学識経験者の方達は、即物主義でいらっしゃるらしくて、形のある物を食べるということに御熱心で、庶民が「文化であるとか、ゆとりであるとか、教養であるとか」形のないものを食べるということには無関心なようですが、それでは「文化国家ニッポン」の看板が泣いてしまうでしょう。
 そんな話を、私は日本経済新聞社のN記者に話したところ、喫茶店の業者で貴方のように「コーヒー一杯の価値」をとらえている人は他にいないでしょう、といわれましたが、確かに業者には見当たらないかもしれません。
 しかし、業者には自覚がなくても、喫茶店を利用する庶民には動機があり、その動機によって喫茶店の営業が成り立っているという歴然たる事実があるのです。
 その動機こそ、ささやかなる安息を、自分達が購うことのできる範囲のお金で得たいという強い欲求なのです。
 こういうことは、コーヒー代ばかりではありません。かつてはタバコ代が比喩に使われたこともあります。また、パチンコ代だってそういえるでしょう。
 このようなささやかな庶民の楽しみを無駄ということで片付けようとするならば、腹の足しにもならない「モナ・リザ」なんかも公衆浴場のタキギにすべきでしょうし、海洋博なんかも無駄の筆頭、また、国民休暇村なんかもやめて養豚場にでもすればよいということになります。
 とにかく、米価をあげるならあげるでもう少し理論的につじつまの合う理由を国民に提示して説明すべきで、いいかげんに「コーヒー二杯半分の値上げ」などといいのがれをしようとするからおかしなことになってくるのです。
 とにかく、政治家の口からスラリと、たかがコーヒー代などという言葉が出るのではなくて、コーヒー一杯にすぎないことでも十分の配慮がなされるような世の中になってもらいたいものですね。

ブラジルの霜害によるコーヒー豆の値上がりについて


1975年9月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年9月
珈琲共和国1975年9月

新聞や週刊誌などで既にご承知のことと思いますが7月下旬、ブラジルに降りた霜は、オイルショックさながらの影響をコーヒー業界に与えているようです。
現地の新聞などが伝えるところによりますと、ブラジルコーヒーの生産地であるパラナ州では、雪を伴った零下10度の寒波のためにコーヒーの木は葉や枝ばかりでなく幹や根にまで被害を与えたということです。
そのため枯死するコーヒーの木も多く、植えかえなければならない状勢にあるということですが、もしこれが本当だとすると、世界の1/3の生産量を誇るブラジルのコーヒーは今後数年間大減産となり、世界的にコーヒーの絶対量が不足してくることになります。
それに加えて、このところ相場が下降気味で、何とか値上げを計りたいと考えていたコーヒー生産国側は、チャンス到来とばかり、輸出の一時停止を行い、輸出価格の引き上げを策しておりますので、以来、世界のコーヒー相場は上昇する一方となっています。
また、具合の悪いことにはわが国のコーヒー業界にはこの2、3年来のブラジルコーヒーの増産、豊作の有様から、先安とみる楽観論が支配的で、各社共に仕入を手控える傾向にありましたので、国内在庫は少なく、10月頃には国内ストックの原料豆が品切れとなり、高騰した国際相場がスライドされた新規輸入分に頼らなければならないようです。
そうなりますと、当然、コーヒーの卸価格も上がることになります。
東日本コーヒー商組合では8月19日に総会を開き、この問題について情報を交換したようですが、遅くとも10月までにはコーヒー豆の卸価格をキロ当り200~300円程度引き上げなければならないだろうという意見が大勢を占めたということです。
さて、コーヒー豆の卸価格が上がるとなると、当然喫茶店のコーヒー代も値上がりするのではないかということになりますが、私は、コーヒー豆の値上がり自体はコーヒー店で飲むコーヒー代にかかわりないという風に考えています。
なぜならば、たとえコーヒー豆の卸価格が上がったとしても、コーヒー代の原価の中で占める割合は大したものではないからです。
私共コーヒー店の業者がお客様に提供しているコーヒーの原価は、家賃や改造費、権利金の償却費、水道光熱費がその大部分を占め、原材料の占める割合はせいぜいコーヒー代の18%位だからなのです。その上、コーヒー豆の原料代はその半分位ですから、コーヒー豆の卸価格が上がったからといって影響を受ける額は大したものではありません。
この程度の値上がりは、日常的に購入している砂糖やクリームやその他の商品や資材の値上がりで経験していることですから、その時点での経営効率の中で吸収してしまえばできないことはない金額なのです。
むしろ、東京都の場合などは水道料金が3倍になるというようなことの方がこたえるわけで、値上げの本当の理由はそちらにあるのではないかと考えています。
ですから、もしコーヒー店や喫茶店でコーヒー豆の値上がりを理由にコーヒー代を値上げする店があったとしたら、これは全くの便乗値上げとしか考えられないと思います。
ただ、コーヒー専門店にしろ喫茶店にしろ、喫茶営業という部門に関しては、飲食物の販売というよりもサービスの提供という要素が強い面がありますので、人件費とか公共料金が上がるとその値上がり分のうち営業の弾性によって吸収できない部分については多少値上げをしなければならなくなってきていることは事実です。
私共、ぽえむチェーンにおいても、サービスの提供、特に楽しさを演出するための経費がかなり圧迫を受けており、スケールの拡大によるコストダウン等でカバーできない面が出てきていますので、本年中にコーヒー代を多少値上げするかもしれません。しかし、値上げするといっても20円か30円が限界であって、50円も100円も上げるということは便乗値上げもいいところだといわざるを得ません。
このブラジル霜害で、私が一番ショックを受けたのは、世界的なコーヒー豆の相場の下落を見込んで、サービス提供によるコストプッシュの少ないコーヒー豆の店頭販売の引下げを計画していたことがだめになったことなのです。
皆さん方がぽえむのコーヒー豆をたくさん買って下さるので、ぽえむ本部が扱うコーヒー豆の量は年内に月商10トンを超えるだろうと思いますが、そのスケールを生かしてコストダウンしようとしたものがだめになりました。この物の値段がみな上がるときに値下げをするというカッコヨサ――これも、一夜の霜でユメとなりました。
しかし、値下げはできなくても値上げをしないという道が開けていますから、その点で十分な努力をしたいと思っています。

ブラジル霜害ウラオモテ


1975年10月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年10月
珈琲共和国1975年10月

①コーヒーで乾杯!

「ブラジル霜害によるコーヒー豆の値上がり……」というニュースが新聞や週刊誌などで大きくとりあげられていますが、ブラジルに数年間生活した私としてはその記事を読んで思わずニヤリとした次第です。
というのは、石油ショック、大豆禁輸等々、このところ資源国ナショナリズムが大いに気勢を上げているのを見て、ブラジルは、一体いつこの流れに乗っかるつもりだろうかと他人事ながら心配していたからなのです。資源国はアメリカを除き、殆どが開発途上国家群で占められています。
中近東諸国が石油の出し惜しみでボロ儲けしているのを、これら開発途上国家群がどんな気持で眺めており、ヤキモキしていたか、それを想像するといささか悲喜劇じみて参るわけです。そんなとき「霜害で値上がり」のニュース、ヤレヤレこれでやっとブラジルも儲け口を見出したか……と、そこはブラジル贔屓をもって任じる小生、思わず愛すべきブラジルのために値上がり前のコーヒーで乾杯してしまったという次第なのです。

②コーヒーはギャンブル?

ブラジルでは農業を「ギャンブル」であると規定しています。特にコーヒー豆生産の賭博性は昔からブラジル人の喜憂の種でした。
ブラジルコーヒーの主産地といえばサンパウロ州とパラナ州、このあたりは高度が海抜千メートル前後とあって、七、八月の冬季に霜の降ることは決して珍しくはありません。もし霜が降らないと・・・大豊作。コーヒー豆は暴落し、その売値はトラックの運搬量さえも出ない・・・というわけです。だから昔からそんな大豊作の年には、政府の指導で山積みされたコーヒー豆を焼いたり海洋に投棄したり、それはそれは悲しい苦労をしていました。
そこにパラナ州の「霜害」です。どんなにかコーヒー生産者たちは喜んだことか。きっとサンバにのって踊り狂いたいような気持だったでしょう。とにかくブラジルのこと、「霜害で値上げ」はあまりにも単純すぎる理由です。私に言わせれば、むしろ過剰生産が不要になっただけでも儲けもの・・・といった最初のイメージでした。
ブラジルは資源国としてコーヒーのほかに鉱物資源がありますが、後者については余程政治情勢に変化が生じない限り、不作という理由が起こりません。
ブラジルで生産されるコーヒー豆はすべて「ブラジル珈琲公団」によって管理され、組織的かつ計画的に売買されています。その点では中近東の石油とほぼ同様で、国際的大資本の石油メジャーならぬコーヒーメジャーといったものが存在しない以上、そのコントロールは石油よりはるかに簡単と見なければなりません。「霜による不作=値上げ」というのはあまりにも図式的すぎるようです。とにかく資源ナショナリズムは遂に珈琲の世界にまで波及したわけです。日本の珈琲業者の皆さん、それに喫茶店業界の皆さん、皆さんのすべてが値上げの理由を握ってヤレヤレということにもなりましょう。

③嘆きの日系珈琲史

今から七十五年前、最初の日本人移民が笠度丸でブラジルに渡って、配置されたのは珈琲畑でした。テント小屋にも等しいバラックに雑居させられ、奴隷にも等しい待遇の下で働かされた彼らは、夜になると自分たちの運命を呪い嘆いたと語られています。そんな生活の中で彼らの希望は≪いつの日か祖国日本に錦を飾って帰国する≫ことしかありませんでした。しかし、それは日本の敗戦ですっかり夢と果てたのでした。
ブラジルで、私は多くの日系の老人から昔のコーヒー園入植時の辛い思い出を聞かされました。それはこの短い文章ではとても書き尽くせない内容です。いつか私はこの珈琲共和国に、それらの話を書きたいと思っています。
一杯の香り高い珈琲を啜るとき、わたしはいつもあのブラジルの日系老人たちから聞かされた昔話を想い浮かべるのです。真白な湯気が一瞬とぎれたカップの中のコーヒー色の面に、当時の日系移民たちの経た苦しみの地獄絵図が描かれているように思えてならないのです。よほど彼らの話が私の心の奥底深く印象づけられているのでしょう。

④ビーバ・カフェ!

日系移民の社会的地位は大きく向上し、かつては奴隷として入植した珈琲園の経営者層となっている人も少なくはありません。私は、地球の反対側から遠くブラジルの日系の人々のイメージを想い浮かべるとき、今度のコーヒー豆値上げはどうか彼らに最も厚い恵みの機会となりますように、と願わずにはいられません。とにかく商社や政府という大組織だけへの恵みの機会となることについては、お断りです。
あの珈琲の茶色の液体には、言語では表現できないほどの悲しくもニガい人間の歴史が秘められているのですから……。
(山下規嘉)

メリタのPRする6gコーヒーは本当に安上がりか?


1975年11月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年11月
珈琲共和国1975年11月

最近、コーヒー業界の話題になっていることの一つに「メリタの6gコーヒー」があります。
今までのわが国コーヒー業界の常識としては、コーヒーのカップ1杯あたりの標準使用量は10gということで、コーヒー専門店などでは12gから15gも使用するところがあります。
私共ぽえむでも、ジャーマンロースト1杯あたり12gというのが基本ですから業界の常識とは大して変わっていません。
ところが、今度メリタでインスタントコーヒーより安いということで6gコーヒーの宣伝を始めたものですから、近年喫茶店のコーヒーの消費量が年を追うごとに落ち込み始めているコーヒーの卸業者(焙煎業者)が、これ以上コーヒー消費量が減ってはたまらないとカンカンになって怒り狂っているようです。
7月号の本誌でも6gコーヒーを取り上げたところいつも本誌を目の敵にしている焙煎業者の方から、攻撃の仕方がてぬるいではないかと妙な励ましの言葉をいただき、当惑させていただきました。
私はこの6gコーヒーについては、7月号でも述べたとおり、あくまでもコーヒーを飲む本人の好みであって、6g使って淹れようが2g使おうが、それは本人の勝手だと思います。
ですから、メリタが6gコーヒーをPRしているからといって、メリタを使って淹れているぽえむのコーヒーを6gに減らす気は全くありません。
ぽえむはぽえむの味として研究し、創りあげてきたコーヒーの美味しさを絶対に崩す気はありません。
しかし、コーヒーを飲む当人が、自分は6gしか使わない薄いコーヒーがよいというならば、それに反対する気も全くありません。
そんなことより、私は6gコーヒーの方が安上がりだというメリタの主張も、6gコーヒーが普及したらコーヒーの消費用が減るという焙煎業者の主張も、どちらも間違っていると思います。
なぜならば、私が見たところではコーヒー好きな人ほど薄いコーヒーを好む傾向があるからです。そして、薄いコーヒーほどお腹にたまらないので何杯もお代わりできるからなのです。ということは、薄いコーヒーだとついつい飲みすぎて安上がりどころか買って来たコーヒーがたちまち底をつくということになってしまいそうです。ですから、私は焙煎業者の方たちが心配するようにコーヒーの消費量が減るどころか、かえって増えるのではないかと思うのです。
ただし、これはあくまでも家庭用のコーヒーの話であって、コーヒー専門店や喫茶店などではふところの都合でコーヒー代のお代わりがすすむというわけにはいきません。
やはり高いお金をとってコーヒーを提供するからには、1杯で充分に満足していただけるだけの中味をもったコーヒーを提供すべきでしょう。
むしろ6gコーヒーで気になるのは、極細挽き(ファイングラインド)にしろということの方です。
メリタの生まれ故郷の西ドイツのように良質のコーヒーが輸入されているところなら、いくら細かくなっても問題はないでしょうが、わが国で売られているようなアフリカ産のロブスター種や安物のアラビカ種のたくさん入ったコーヒーを細かく挽いて、それに含まれている成分を充分に抽出したら、そんなことになるでしょうか。
私は、そのためにせっかくメリタで淹れたコーヒーがインスタントコーヒーよりまずくなって、再びレギュラーコーヒー党をインスタントコーヒー党に追いやる方が心配です。
実のところ、私はたいへん薄いコーヒーが好きですが、たいがい濃いコーヒーを湯で割ったり、ちょっぴりぜいたくをするときは多量のコーヒーを粗挽きにしてさっと手早く淹れて飲んだりします。
まあそれがいちばんコーヒーの美味しい飲み方でしょう。
でも、もしもメリタがPRするように6gコーヒーをファイングラインドで淹れて、そして美味しいコーヒーが飲めるものならそれにこしたことはありません。
私も、そんな美味しい良質なコーヒーがフンダンにある国に、日本がなってもらいたいと思います。