「珈琲屋風雲録」カテゴリーアーカイブ

1975年6月~1976年4月 (株)日本珈琲販売共同機構 創業者 故 山内豊之氏 コラム 全11号

珈琲屋風雲録 第四話


1975年10月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年10月
珈琲共和国1975年10月

-理解されなかったフランチャイズシステム-
▶ホラ吹き?眉ツバ?◀
最近はわが国でもフランチャイズシステムという言葉が盛んに使われていますが、私がキャラバンコーヒーさんに珈琲専門店のフランチャイズチェーンの展開を共同でやろうともちかけた三年半前は、まだまだ言葉自体も普及しておらず、フランチャイズチェーンと称する企業なども、マルチ商法まがいのものや見込み客の数だけで販売権を切売りする山師まがいのものが多く、ごく一部の企業を除いては、良い方で商品の卸し屋といった具合でしたから、私たちが現在行っているようなチェーン展開のあり方など、誰も想像できなかっただろうと思います。
ですから、私がフランチャイズチェーンの将来性を説き、今ぽえむチェーンがあるような姿を未来像として具体的に話をしても、まるで絵空事か大ボラを聞くような気しかしなかったのではないかと推察します。
キャラバンさんの方でも一応は私の顔を立てて、役員会や営業所長を含めて会議を何回か聞いてくださったのですが、「どうも山内の話は眉ツバものだ」というのが本音だったのではないでしょうか。
そのうちに、私の持前の気の短さ「説明してもわからない相手と一緒に仕事をしても仕方がない」と、ジョイントベンチャーを断わってしまいました。
正直な話、私の最も信頼すべき日珈販の社員たちにしても「ホラ話」だと思っていたというのですから、そんな話をもってジョイントベンチャーを頼みにいった方がむりなのかもしれません。

▶助け舟現わる‥◀
ところで、私という人間は得な性分といえようか、無茶苦茶な人間なのでかえって友人や取引先の人に恵まれるというのか、必ず助け舟が現われます。
そのときも救世主が現われたのですが、それがこともあろうにキャラバンコーヒーの永田勇作社長だったのです。
永田社長という人は、社外的には意外な位目立たない人ですが、社内や得意先からは頼りにされている人で、一見ヨワヨワしそうにみえる外見ながら外柔内剛の人柄は、若いときから社内でもボス!ボス!と慕われています。
その永田社長が、意地を張ってジョイントベンチャーを断わって、その実は困りきっている私を助けてくれたのです。
たとえば支払いを手形にしてくれたり、手形のサイトを次から次へと伸ばしてくれたり、また日珈販でなく山内企画という私個人的な会社に、投資でも貸付でもよいからといって200万円ばかり融通してくれたりしました。
私は口先では「日珈販に投資しないと今に後悔するぞ」などと言っていましたが、とても感謝しておりました。
そのようないきさつがあったので、日珈販はキャラバンコーヒーの子会社であるかのようにいわれてきましたが、心情的にはキャラバンコーヒーと日珈販は密接な関係にありましたが、会社対会社の関係は全く無関係という妙なヤヤコしい関係にあったわけです。
しかし、このような関係も、ドトールコーヒーさんと取引きをするにあたり、私の家内がキャラバンさんの持分を買取りましたので、現在は完全に解消されています。

さて、そんな具合で強力なパートナーもなく発足した日珈販の前途は全く絶望的なもので、超楽天的といえようか、無茶苦茶のカタマリといえようか、とにかく意気のみ高い山内大社長さんのホラだけが鳴りわたっているという有様だったのです。
そのような情勢のとき、どう思ったのか日本珈琲貿易の武田太郎重役から「自社も出資したい」という話が持ち込まれたのです。

珈琲屋風雲録 第五話


1975年11月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年11月
珈琲共和国1975年11月

業界に旋風おこる
メリタ取扱いがきっかけ——-
私共と日本珈琲貿易さんがお近づきになったのは、メリタ製品の取扱いがきっかけでした。
ある日、私のところへキャラバンコーヒーの当時の城南営業所長であった沢田邦彦君(現営業第二部長)と日本珈琲貿易の鈴木正章さん(現キタヤマコーヒー)が連れ立って来られて、今度メリタの日本総代理店としてメリタの商品を輸入するから使ってくれないかと言います。当時ぽえむではカリタ製品を使っておりましたし、カリタさんからは開店当初少しシーリングの甘いフィルターペーパーをたくさん無償でいただいた義理もあったので私は気乗りがしなかったのですが、鈴木さんが非常にメリタ製品普及に情熱を持っておられたのと、ちょうどその頃使っていたデミタスカップの口にカリタの101型が合わず抽出したコーヒーが洩れて困っていましたので100型(現1×1型)という1人用のものを使わせていただくことにしました。
使ってみるとペーパーの質はメリタの方がよく、プラスティックのフィルターの無機質も、当初心配したような客からの反発もなく、軽くて使いやすく、カップのフチを傷つけるようなこともないので、次第次第に全面的に採用することにしました。
そんなことがご縁で、私共と日本珈琲貿易さんとはキャラバンコーヒーさんを中にはさんで親しくなりました。
最近ではメリタもすっかり有名になりましたが、当時メリタを真面目に取り上げようと考えたのは、わが社の他に、キャラバンコーヒーさんと京都のオガワコーヒーさん位のものでしたから、自然日本珈琲貿易さんとわが社はメリタを通じて親密の度合いを深めていったのです。ですから当時の私共としてはメリタの輸入総代理店としてメリタ商品の販売を伸ばそうとする日本珈琲貿易さんと、メリタによるコーヒーの抽出とメリタ商品の販売ネットを創ろうとするわが社が提携しようといっても、決して不思議ではなかったのです。

コーヒー業界の商習慣——
しかし、その当時も現在もわが国のコーヒー業界は商社・生豆問屋・焙煎業者の結束は固く、喫茶店の経営者や一般消費者には絶対に手の内を見せないというのを商習慣にしていますので、私共のような喫茶店業者と生豆問屋の日本珈琲貿易さんが、たとえキャラバンコーヒーさんという焙煎業者が仲介してとはいえ、直接に接触するということは大変なことで、このことは業界内部で、当の日本珈琲貿易さんはもとより仲介したキャラバンコーヒーさんへも風当たりが強かったようです。
私が考えるところ、両者ともに業界では力のある会社ですからウルサク言われた位ですんだのでしょうが、これが弱小業者だったら軽くて私共へのお出入り差し止め、重ければ業界の村八分ということになったでしょう。
私にいわせると、本来商売というものは相手にその商品の内容をキチンと話をして、その内容にふさわしい値段で売り渡すのが正しいあたりまえの取引の仕方なのですが、コーヒー業界では、喫茶店などの経営者に情報を与えずして無知におとしいれ、その無知につけこんで法外な値段でコーヒーを売りつける商法があたりまえでしたから、そのようなセクト主義、秘密主義を貫く必要があったのでしょう。
ある焙煎業者がブラジル4、コロンビア3、モカマタリ3のブレンドだと称しているコーヒーが、実はブラジルのIBCといわれる格下品とアイボリー・コーストのロブスタ種やペルーの安物しか配合されていないなどということは業界では珍しくありませんでしたから、零細な規模の業界でなかったらとっくの昔に公正取引委員会のヤリ玉にあがっていたでしょう。私はそのような事実を焙煎業者の退職者から聞き出し、マスコミなどに暴露しましたから、私に対する業界の反発はたいへんなものでした。
いくら業界から反発されようと、私には私の考えを支持して私の店でコーヒーを飲んでくれる顧客がいますから全然平気でしたが、私への情報提供者というヌレギヌをかけられた日本珈琲貿易さんやキャラバンコーヒーさんはとんだ迷惑だったであろうと思います。
そんなことですので、当時日本珈琲貿易の武田佳次社長の先見性と決断と勇気がなかったら、とうていそんなことはできなかったでしょう。

珈琲屋風雲録 第六話


1975年12月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年12月
珈琲共和国1975年12月

メリタ普及の意味するもの

メリタの感謝状
私事になって恐縮ですが、去る10月21日、私は東京・六本木にあるメリタジャパン社に招かれて、メリタ本社の永年にわたるメリタ製品販売の功績に対して、副社長並びに鈴木真メリタジャパン社長連名の感謝状とメリタ社主からの記念品をいただきました。
この記念品は、メリタ社がベルリンに新しく建設した工場で一番最初にすいたコーヒーフィルター用の瀘紙に、古いベルリンの市街図を印刷したもので、たいへん価値のあるものです。
私は、メリタ製品が日本珈琲貿易社によってわが国に導入されて以来、そのすぐれた機能に惚れ込んで、他のコーヒー器具には目もくれず、一筋にメリタの普及に心を傾けてきましたから、今回感謝状をいただいたことは、その努力が報いられたものとたいへん嬉しく思っています。
私は、メリタが家庭用コーヒーを普及させるのには最もすぐれたコーヒー器具だと考えておりますし、またわが国のコーヒー業界を一部の業者の独占物から、まともな商売に改革させるためには、家庭用コーヒーの普及以外に方法がないと考えておりますので、メリタから金をもらっているのではないかと陰口を叩かれるほどメリタの肩を持ち、メリタの優秀性について業界誌などに書きつづけてきたのです。
掛値無しに考えても、私がメリタの優秀性についてマスコミに書いたり書かせたりしたものを宣伝広告費として計算すれば、1億円以上になるでしょう。
ですから、私やキャラバンコーヒー社、そして日本珈琲貿易社などの努力がなかったら、こんなに早くメリタ社が日本へ進出できなかったといっても過言ではないと思います。

日珈販オーナーは珈琲業者にあらず?
ところで、それにしてはメリタ社の私に対する態度はつれないものでした。つまり、私がぽえむというコーヒー専門店の本部のオーナーで、焙煎業者でないために、メリタ社では私を無視してきたのです。
もっともこれはメリタ社が悪いのではなく、コーヒー業界のタブー(商社や生豆問屋や焙煎業者のみが仲間うちの商売をする)を慮ったもので、もしメリタ社がおおっぴらに私共と直接取引でもしようものなら、製品ボイコットをしかねないような空気がコーヒー業界全体を支配しているからなのですが、私共にすれば、メリタ普及の功労者を無視してニワカメリタ教信者を大事にするやり方は気に入りませんでしたし、少なくともわが国のコーヒー業界を革新してくれるパワーの一つだと信じていただけにがっかりしたというのが偽りのない気持でした。
しかし、今回メリタ社が私に感謝状と記念品を下さったおかげで、なんとなくそのモヤモヤした気分も吹っ飛んでしまいましたのでまた大いにはり切ってメリタ製品を売りまくろうと思っています。

メリタ普及の真意
さて、このメリタ製品を私に会わせてくれた日本珈琲貿易の武田社長ですが、過日メリタ主催の勉強会『丘上会』で「メリタの普及こそわが国のレギュラーコーヒーの普及を促進するものであり、ひいてはわが国珈琲業界の発展に寄与するものであると信じてメリタの導入を行なった」そして「今回メリタの輸入総代理店をメリタジャパンにゆずったのも、その方がより広く多くの人たちにメリタを使ってもらうことができ、その方がより業界のためになると考えたからである」と話されたそうですが、私も全く同感です。私はアウトサイダーなので丘上会には招かれませんでしたので直接全部のご意見を拝聴することはできませんでしたが、日頃の武田社長の言動から、十分にその真意を推察することができました。

必要な先見性と決断力
このような先見性と決断力を兼ね備えた武田社長あってのことでわが社と日本珈琲貿易社のジョイントベンチャーの話は進行したのですが、現実の問題としてはなかなかスムーズにはいかなかったのです。
まず第一にトップがいくら先見性に基づいた決断を下しても、カンジンの現場は業界のタブーという鎖にガンジガラメに縛りあげられていて動きがつかなかったというわけで、お互いに株を持ち合うという形式上の関係ができても、一向に両者の間柄は親密の度合を深めていくというようなわけにはいかなかったのです。
それでもまだ、日本珈琲貿易さんがメリタの総代理店である場合はメリタの販売についての利害関係がありましたから、まだまだ提携の理由もありましたが、今日のように日本珈琲貿易さんが一代理店となり、私共の買っている特約店が他の代理店から仕入れているなどということになってしまうと、日本珈琲貿易さんが私共と直取引をしないかぎり何のメリットもないということになってしまいますが、これも私共の方から働きかけても駄目なようですから、今やお手上げといった状態なのです。
私は、今やもう焙煎業者はメーカーと問屋に機能分化する時期に来ており、そして分化して考えれば私共チェーン店の本部も焙煎業者も大して変わりないと思うのですが、日本珈琲貿易さんをはじめ、石光商事さん、ワタルさんなどの生豆問屋さんには、そういうタブーに挑戦する勇気がなさそうです。
そうなると、ますますUCCさんあたりのようにユニークで決断力のある企業の方が、シェアを伸ばしていくのではないかと考えたりしているのです。

珈琲屋風雲録 第七話


1976年1月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1976年1月
珈琲共和国1976年1月

山内企画と日珈販
その生い立ちの記

話は少し横道へそれますが、私は今、山内企画という会社と日本珈琲販売共同機構(日珈販)という会社の社長をしています。

~親としての山内企画~
山内企画は、その出資金の大半を私と家内が保有しており、一部を創成期からの同志で現在日珈販の総務担当をしている黒沢庸五君と、日本珈琲貿易さんが保有しています。そしてその会社の仕事というのは、ぽえむの下高井戸店、阿佐ケ谷西、吉祥寺各店を日珈販もフランチャイズ店として経営してしているいわばプライベートな会社です。
ですから、会社の役員も私と家内とそれに黒沢君というパパママストア的規模の会社で、その社風も極めてファミリーな、そしてその経営方針もファミリーな会社なのです。
そのプライベートな会社に日本珈琲貿易さんが出資しているのは少々おかしいのですが、それは、日珈販の創立当時は山内企画が日珈販の株式を全部保有しており、事実上小会社でもあったので、山内企画に出資することは日珈販に出資することと同じであるという考えに立ったからだと思います。そして、そのような考えに至ったのは、当時日珈販の経済基盤が弱くて山内企画におんぶしているような状態だったので、日本珈琲販売共同機構に投資するよりは山内企画に金を出したほうが投資金の保全という事を考えたらリスクが少ない、と考えたからなのでした。それはどちらかというとキャラバンさんの方にその意向が強く、日珈貿さんはその考えに乗ったというのが真相のようです。
私は、山内企画の成立基盤というものが、極めてプライベートな型(例えば、吉祥寺店は私の姉の店を山内企画が経営だけ引き受けているとか、下高井戸店は家内の実家が家内に貸しているものをやはり経営を任されている)の上に成り立っているものですから、山内企画はあくまでプライベートな会社の域を出ないので、日珈販は公共性の強い企業として育てたいと考えておりました。
私は、キャラバンさんにも、日珈貿さんにもそのことを何度か説明をしたのですが、現在に至っても山内企画と日珈販の区別がよく判っていらっしゃらない様子です。
もっとも、最初ぽえむチェーンは山内企画の中にその本部をおいて加盟参加を呼びかけ、永福町店さんが加盟された時点で日珈販という新会社を作って、チェーンの本部機構を移管しましたので、自然そのような混同が起こってしまったのだと思われます。

~親としての日珈販~
しかし、創立当時はともかく、現在では山内企画が日珈販の筆頭株主であることと、私が社長を兼務している他は、全く別の会社として動いており、株主の数も増え、山内企画の持ち株も過半数を割っております。
また、取締役その他のスタッフも山内企画とは無縁な者がほとんどで、社員の意識構造も山内企画なんてものはフランチャイジーの一つにしか当らない、というのが最近の実情なのですが、業界の方や、加盟店の方にも、まだまだ山内企画と日珈販が同じものだと思ってらっしゃる方が多くて困ってしまいます。
このような混乱起こってしまったのも、原因を糺せば、私の強引なやり方に起因するのでしょうが、そのような無茶なやり方でもしない限り、今の日珈販は創り上げられなかったと思います。
ですから、今となっていろいろ問題を残すようなやり方を今の時点で批判することは出来たとしても、それは出来たからいえるのであって、堅実でオーソドックズなやり方なんていうものでやっていたら、日珈販などという新しいユニークな会社は出来なかっただろうと思いますので、私は私なりに最善を尽くしたと思います。
ただ、個人的には、キャラバンさんから山内企画の持分を買いとった銀行借入金の返済や、山内企画が日珈販の肩代わりをした借入金の返済など、あと2年余りは借金の返済に追われるかと思うと、全くうんざりするというのが、本音なのです。