消費者米価とコーヒー二杯半分の値段


1975年8月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
珈琲共和国1975年8月
珈琲共和国1975年8月

 過日、私のところへ日本経済新聞のN記者から電話がかかってきました。
 その要件は「よくたかがコーヒー一杯分の金額」という比喩をきくが、そのことについてどう思うか、ということでした。
 その電話を受けて正直な話、私はまた消費者米価の話かとウンザリし腹立だしくもありました。
 新聞が伝えるところによりますと、消費者米価の値上げ分は「コーヒー二杯半分を節約したらよい」とのことですが、これで一体われわれは何杯分のコーヒーを節約させられたでしょうか。
 政府や米価審議会の方々は、一日に何杯もコーヒーを召し上がっているのでしょうが、われわれ庶民というものは、一日に一回喫茶店でコーヒーを飲むというのが精一杯というところですから、こう何年も続けて節約させられれば一体月に何回コーヒーが飲めるのでしょうか。
 そのささやかな楽しみさえも奪ってシャーシャーとしているお歴々の無神経さには腹が立つより呆れてしまいます。
 そもそも、われわれ庶民がコーヒーを喫茶店で飲むということは、無駄な飲み物をただ飲むというのとは大分意味が違うと思います。
 まず、わが国で喫茶店という業態が異常発達した背景は、住宅やオフィスを含めた住全体の貧しさからきているものです。
 政府や米価審議会の委員の方達は御住居も立派で、オフィスにも個室をお持ちでしょうが、庶民というものは、家に帰ればよくて3DKの団地住まい、会社では窮屈なオフィス以外にせいぜい息抜きをするのは、ビルの屋上か喫茶店ぐらいのものなのです。
 ですから、その喫茶店で飲むコーヒー代を節約するというのは、ごくささやかな憩いの時間とスペースを購うことを止めろということと同じことでしょう。
 そんな楽しみさえも庶民に与えることのできない為政者は、無能という以外表現の仕様がないと思います。
 どうもわが国の官僚や政治家や学識経験者の方達は、即物主義でいらっしゃるらしくて、形のある物を食べるということに御熱心で、庶民が「文化であるとか、ゆとりであるとか、教養であるとか」形のないものを食べるということには無関心なようですが、それでは「文化国家ニッポン」の看板が泣いてしまうでしょう。
 そんな話を、私は日本経済新聞社のN記者に話したところ、喫茶店の業者で貴方のように「コーヒー一杯の価値」をとらえている人は他にいないでしょう、といわれましたが、確かに業者には見当たらないかもしれません。
 しかし、業者には自覚がなくても、喫茶店を利用する庶民には動機があり、その動機によって喫茶店の営業が成り立っているという歴然たる事実があるのです。
 その動機こそ、ささやかなる安息を、自分達が購うことのできる範囲のお金で得たいという強い欲求なのです。
 こういうことは、コーヒー代ばかりではありません。かつてはタバコ代が比喩に使われたこともあります。また、パチンコ代だってそういえるでしょう。
 このようなささやかな庶民の楽しみを無駄ということで片付けようとするならば、腹の足しにもならない「モナ・リザ」なんかも公衆浴場のタキギにすべきでしょうし、海洋博なんかも無駄の筆頭、また、国民休暇村なんかもやめて養豚場にでもすればよいということになります。
 とにかく、米価をあげるならあげるでもう少し理論的につじつまの合う理由を国民に提示して説明すべきで、いいかげんに「コーヒー二杯半分の値上げ」などといいのがれをしようとするからおかしなことになってくるのです。
 とにかく、政治家の口からスラリと、たかがコーヒー代などという言葉が出るのではなくて、コーヒー一杯にすぎないことでも十分の配慮がなされるような世の中になってもらいたいものですね。