珈琲屋風雲録 第二話


1975年8月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年8月
珈琲共和国1975年8月

ハードな生活に堪え、トンネルを脱出

焙煎業者のサービス
日珈販というフランチャイズ本部を設立するにあたって、私が財政面での計算を怠っていたのではなかったのだが、実際に始めてみると予想をはるか上回る出費であった。
かりそめにもフランチャイズの本部を名乗るからには、たとえ加盟店が1、2店舗であろうとも、100、200店を有するチェーンの本部機能と何ら変わることなき機能を備えていなければならないことは承知していた。そして、その本部機能が、いわゆる焙煎業者のセールスマン達が、新しい喫茶店開発業者のためにコーヒーの淹れ方を教えたり、店のデザイナーを紹介したり、施工業者をあっ旋したりするのとは本質的に違うということも理解していた。
しかし、いざ本部として加盟店の指導にあたってみると、その重要性の何かを知るに従って自分達の責任の重大なことに驚き、恐れ、途方にくれたというのが本音なのである。
私はフランチャイズの本部を運営してみてつくづく考えるのだが、いわゆる焙煎業者達が、いとも簡単に喫茶店の開発希望者にコーヒーの淹れ方を教えたりの程度で店を開かせたりしているのをみて、一体彼らは自分達の行っている仕事の重大さを知ってやっているのかと思わされてしまう。
それは、たとえそのディーラーヘルプともいうべき行為が善意であり、無償の行為であったとしても、開店希望者にとってはそれが開業までの唯一の導きであり、さらに、数百万数千万という多額のお金をその店に投資させることになっているということを自覚しているのだろうかということなのである。
彼らは、自分達はサービスでやったことなのだから、金を貰って教えたりアドバイスしたりしたわけじゃないのだから、責任は負えないというかもしれないが、お金を投資する側にとっては重大なことで、場合によってはその人の事業の成否ばかりでなく、生命にもかかわる問題ともなりかねないのである。
かつて、私が一介の素人として阿佐ヶ谷に店を開き、その道のプロフェッショナルだと信じていた人達のアドバイスを受けて商売した結果が、結局、睡眠も食事も着るものも十分でない、ただ食べて働いて眠るだけの生活を数年の間させられたことで、彼らがいかに商売にかけては素人で無力であるかということを骨のズイまで知らされている。
幸い私は何とかそのハードワークに堪えることができたし、そのトンネルも自分のやり方を開発することによって脱出することができたが、もしあのままであったら、私も最後には健康を害して一家心中でもしていたかも知れないと、ゾッとすることがある。もっとも、その当時のハードな生活がたたって慢性腎臓炎となり、完治するのに5年もかかったのだから、心中する前に死んでいたのかもしれないのだ。

自社配送を始める
私もフランチャイズの本部をやるからには、そんないい加減なディーラーヘルプのなりくさしのようなことではなく、必ず成功する店作りと営業の指導を行いたいと思っていたから、それなりの準備をしてかかったのだが、実際の仕事を始めてみると、その仕事の奥の深さには絶望的な思いをさせられたのである。
そのまず第一は、人材の問題であった。
今でこそ、営業担当常務取締役に加藤久明(元木村コーヒー店取締役)を得、また、開発担当常務取締役に久保寔(元東洋冷食開発室長)を加え、若いスタッフも順調に育って、社外スタッフの矢花清一(インテリアデザイナー)、笹岡信彦氏(双美工房代表・グラフィックデザイナー)等の積極的な協力もあって、スタッフの充実度という点では、コーヒー業界で他にひけをとるものではないと自認していますが、発足当時は現指導課長の小高正三や現総務担当常務取締役黒沢庸五と私などが何から何まで陣頭に立ってやっていたわけですから、今から考えれば不満なことだらけだったわけです。
その上、計算外のできごととして、商品等の自社配送を行うという必要が起こってきたのです。
当初、私どもは、その当時の取引先であったキャラバンコーヒーにすべて商品の原材料の供給をお願いしており、われわれ本部は純粋にノウハウのみを提供すべき組織として運営していくつもりでした、
ところが、私どもの加盟店である吉祥寺店の近くにある三浦屋さんというスーパーでキャラバンコーヒーの売店コーナーを設けられたことから話がこじれて、結果、自社配送に踏み切らざるを得なくなったのです。
それはどういういことかといいますと、私どもは現在でも当時でも、私どもぽえむ独自のオリジナルブランドのコーヒー豆を発売しており、その加工に関しては、他の得意先のものとは別個に特別注文で行っておりました。
今でも、他の店で売っているコーヒー豆より高い値段がついていますが、これは原材豆、加工方法等すべてに関して品質第一に考えているから、必然的にそうなるわけですが、それを三浦屋さんでは、全く同じコーヒーを安く売っているという風に説明されたようなのです。
その結果、吉祥寺店、店長が顧客から詰問され、それが全加盟店で真相はどうなのだという問題にまで発展し、とうとう最後にはキャラバンコーヒーの工場から直納してもらい、自社配送するということで当座のケリをつけたのですが、結局、この問題は尾を引き、キャラバンコーヒーとの取引きを解消するまでの事態に発展したのでした。
さて、そのようないきさつがあって自社配送を始めたのですが、これが経済的には大きな誤算であったのです。

消費者米価とコーヒー二杯半分の値段


1975年8月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
珈琲共和国1975年8月
珈琲共和国1975年8月

 過日、私のところへ日本経済新聞のN記者から電話がかかってきました。
 その要件は「よくたかがコーヒー一杯分の金額」という比喩をきくが、そのことについてどう思うか、ということでした。
 その電話を受けて正直な話、私はまた消費者米価の話かとウンザリし腹立だしくもありました。
 新聞が伝えるところによりますと、消費者米価の値上げ分は「コーヒー二杯半分を節約したらよい」とのことですが、これで一体われわれは何杯分のコーヒーを節約させられたでしょうか。
 政府や米価審議会の方々は、一日に何杯もコーヒーを召し上がっているのでしょうが、われわれ庶民というものは、一日に一回喫茶店でコーヒーを飲むというのが精一杯というところですから、こう何年も続けて節約させられれば一体月に何回コーヒーが飲めるのでしょうか。
 そのささやかな楽しみさえも奪ってシャーシャーとしているお歴々の無神経さには腹が立つより呆れてしまいます。
 そもそも、われわれ庶民がコーヒーを喫茶店で飲むということは、無駄な飲み物をただ飲むというのとは大分意味が違うと思います。
 まず、わが国で喫茶店という業態が異常発達した背景は、住宅やオフィスを含めた住全体の貧しさからきているものです。
 政府や米価審議会の委員の方達は御住居も立派で、オフィスにも個室をお持ちでしょうが、庶民というものは、家に帰ればよくて3DKの団地住まい、会社では窮屈なオフィス以外にせいぜい息抜きをするのは、ビルの屋上か喫茶店ぐらいのものなのです。
 ですから、その喫茶店で飲むコーヒー代を節約するというのは、ごくささやかな憩いの時間とスペースを購うことを止めろということと同じことでしょう。
 そんな楽しみさえも庶民に与えることのできない為政者は、無能という以外表現の仕様がないと思います。
 どうもわが国の官僚や政治家や学識経験者の方達は、即物主義でいらっしゃるらしくて、形のある物を食べるということに御熱心で、庶民が「文化であるとか、ゆとりであるとか、教養であるとか」形のないものを食べるということには無関心なようですが、それでは「文化国家ニッポン」の看板が泣いてしまうでしょう。
 そんな話を、私は日本経済新聞社のN記者に話したところ、喫茶店の業者で貴方のように「コーヒー一杯の価値」をとらえている人は他にいないでしょう、といわれましたが、確かに業者には見当たらないかもしれません。
 しかし、業者には自覚がなくても、喫茶店を利用する庶民には動機があり、その動機によって喫茶店の営業が成り立っているという歴然たる事実があるのです。
 その動機こそ、ささやかなる安息を、自分達が購うことのできる範囲のお金で得たいという強い欲求なのです。
 こういうことは、コーヒー代ばかりではありません。かつてはタバコ代が比喩に使われたこともあります。また、パチンコ代だってそういえるでしょう。
 このようなささやかな庶民の楽しみを無駄ということで片付けようとするならば、腹の足しにもならない「モナ・リザ」なんかも公衆浴場のタキギにすべきでしょうし、海洋博なんかも無駄の筆頭、また、国民休暇村なんかもやめて養豚場にでもすればよいということになります。
 とにかく、米価をあげるならあげるでもう少し理論的につじつまの合う理由を国民に提示して説明すべきで、いいかげんに「コーヒー二杯半分の値上げ」などといいのがれをしようとするからおかしなことになってくるのです。
 とにかく、政治家の口からスラリと、たかがコーヒー代などという言葉が出るのではなくて、コーヒー一杯にすぎないことでも十分の配慮がなされるような世の中になってもらいたいものですね。