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1975年6月~1976年4月 (株)日本珈琲販売共同機構 創業者 故 山内豊之氏 コラム 全11号

珈琲屋風雲録 -前口上-


1975年6月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年6月
珈琲共和国1975年6月

 昨年、私は「実録珈琲店経営」という本を出版しました。
 ご承知の通りこの本は、私が阿佐谷に小さな喫茶店(現ぽえむ阿佐谷西店)を出店してから、現在のぽえむチェーンが成立するまでの過程を書いたものでした。いわば市井の平凡な一般の男が、ささやかな成功を得るまでどのような体験をしたかということで、どちらかといえば自然の成り行きをそのまま述べたという本であったわけです。

-日珈販誕生
その役割り-

 さて、私は今から3年半ほど前、阿佐谷西店・阿佐谷東店・下高井戸店・永福町店の4点を出発点として、資本金50万円の会社を作りコーヒー専門店の本格的なフランチャイズチェーンの創造に着手しました。
 この会社が㈱日本珈琲販売共同機構(略称・日珈販)で、現在30店舗の加盟店を有し、社団法人日本フランチャイズチェーン正会員としては、わが国コーヒー業界でただ一社の存在ではあるのですが、何しろ資金のないものが始めたものですから、売上高などもまだまだ年商5億円程度と、100億円のフードサービスチェーンが続々と生まれつつある今日では小さな会社でしかありません。
 しかし、日珈販の業界に果たす役割は、企業の大小にかかわりなく重要な位置を占めています。
 大変重要であるからこそ私の個人的な企業で負担した金額をこめて、優に3千万円を超える赤字を出しながらもこの企業を育ててきたし、また育てる情熱を持ち続けることができたのですが、それに比してなぜ重要なのかが業界やその関連業界にはわかっていないような気がします。
 私がぽえむという一珈琲屋を創った場合では、かなり自然発生的に成り行きまかせで、その時々の流れにのせてきたという面がありますが、この日珈販という会社創りにあたっては、最初から日珈販という会社の在るべき在り方を予測し、また追及し、その設計図に基づいて業務を行ってきたという本質的な違いがあったのです。

-事実を書けば
波乱が起きる-

 そこで、私は昨年「実録珈琲店経営」を書きおえたときから、本当に皆さんに読んでもらいたいのは、この続きなのだという気持が強く働いてきました。
 すぐに筆を取りたいとも思ったのですが、いろいろ事情もあってなかなか筆を起こすにいたりませんでした。
 なぜならば、私の書くことはすべて事実や現実に基づいていますから、こうして現在商売をしている私どもに全く影響がないとはいえません。否、まともにかかわりあってくる問題ばかりだからです。
 まず第一に、日珈販・ぽえむを信頼してぽえむチェーンに加盟した加盟店の皆さん方の商売が、日珈販本部が業界から圧迫されることによって結果的に阻害される恐れがあること。
 第二に、日珈販に商品を供給している業者に圧力がかかる事。
 第三に、日珈販のスタッフが業界からシャットアウトされるために業務に障害が発生したりする恐れがあったこと。
 第四に、ただでさえも苦しかった日珈販の資金繰りを圧迫されるような事態が発生するような危険性があったことなどです。
 しかし、最近では少々情勢も変化し、飲食業界のコーヒー需要が落ち込み、家庭用の消費が伸びるなど、業界の志向が転換しつつあることや、味の素ゼネラルフーズやサントリーの業界参入などの動きもあって、今までのような業界を特殊部落化し、業界内だけのルールで商売をしていくというやり方が、もう長続きしないことがハッキリしてきたため、私どもアウトサイダーに対する締付けが弱まってきました。

-有能なスタッフ
威力を発揮-

 また、日珈販自体も本年度に予想される本部年商は2億5千万円と、その業績を伸ばしてきており、数年後には東京地区における焙煎業者の中堅と肩を並べることができると思います。
 この内容も、他の焙煎業者と違って、売り渡し先は加盟店と決まっておりますので、商品数は少なく、売り上げ代金の回収も確実なので、効率的な経営ができるものですから、急速成長をしてもガタがくるようなことは全くありません。
 そもそも日珈販の赤字経営の原因は、有能な人材確保のための人件費負担にあったのですから、今日ペイラインに達してくると、ますますその威力を発揮します。
 今後は本部の商品取り扱い高の増加に従って、さらにスケールメリットを追及できるようになると思いますので、かねてからの懸案であった資金難も次第に解消して、いっそうスケールメリットを生かす商品取り扱いもできるでしょうから、本部の力も増大するばかりだと思います。
 そんなわけで、少々の圧力には屈しないだけの力が日珈販についてきたのですが、そうなってくると私の書きたい欲望が押さえきれなくなってきました。
 とはいうものの、私の周辺にはいろいろ書かれては商売にさしつかえる方も多いので、全く生の形で書くことはできません。
 そこで「珈琲屋風雲録」といった読み物として書いていきたいと思いますので、一つ識ある方は字の裏の裏までお読みとりいただきたいと存じます。

珈琲屋風雲録-前口上-


1975年6月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
珈琲共和国1975年6月
珈琲共和国1975年6月

 昨年、私は「実録珈琲店経営」という本を出版しました。
 ご承知の通りこの本は、私が阿佐谷に小さな喫茶店(現ぽえむ阿佐谷西店)を出店してから、現在のぽえむチェーンが成立するまでの過程を書いたものでした。いわば市井の平凡な一般の男が、ささやかな成功を得るまでどのような体験をしたかということで、どちらかといえば自然の成り行きをそのまま述べたという本であったわけです。
日珈販誕生
その役割り
 さて、私は今から3年半ほど前、阿佐谷西店・阿佐谷東店・下高井戸店・永福町店の4点を出発点として、資本金50万円の会社を作りコーヒー専門店の本格的なフランチャイズチェーンの創造に着手しました。
 この会社が㈱日本珈琲販売共同機構(略称・日珈販)で、現在30店舗の加盟店を有し、社団法人日本フランチャイズチェーン正会員としては、わが国コーヒー業界でただ一社の存在ではあるのですが、何しろ資金のないものが始めたものですから、売上高などもまだまだ年商5億円程度と、100億円のフードサービスチェーンが続々と生まれつつある今日では小さな会社でしかありません。
 しかし、日珈販の業界に果たす役割は、企業の大小にかかわりなく重要な位置を占めています。
 大変重要であるからこそ私の個人的な企業で負担した金額をこめて、優に3千万円を超える赤字を出しながらもこの企業を育ててきたし、また育てる情熱を持ち続けることができたのですが、それに比してなぜ重要なのかが業界やその関連業界にはわかっていないような気がします。
 私がぽえむという一珈琲屋を創った場合では、かなり自然発生的に成り行きまかせで、その時々の流れにのせてきたという面がありますが、この日珈販という会社創りにあたっては、最初から日珈販という会社の在るべき在り方を予測し、また追及し、その設計図に基づいて業務を行ってきたという本質的な違いがあったのです。
事実を書けば
波乱が起きる
 そこで、私は昨年「実録珈琲店経営」を書きおえたときから、本当に皆さんに読んでもらいたいのは、この続きなのだという気持が強く働いてきました。
 すぐに筆を取りたいとも思ったのですが、いろいろ事情もあってなかなか筆を起こすにいたりませんでした。
 なぜならば、私の書くことはすべて事実や現実に基づいていますから、こうして現在商売をしている私どもに全く影響がないとはいえません。否、まともにかかわりあってくる問題ばかりだからです。
 まず第一に、日珈販・ぽえむを信頼してぽえむチェーンに加盟した加盟店の皆さん方の商売が、日珈販本部が業界から圧迫されることによって結果的に阻害される恐れがあること。
 第二に、日珈販に商品を供給している業者に圧力がかかる事。
 第三に、日珈販のスタッフが業界からシャットアウトされるために業務に障害が発生したりする恐れがあったこと。
 第四に、ただでさえも苦しかった日珈販の資金繰りを圧迫されるような事態が発生するような危険性があったことなどです。
 しかし、最近では少々情勢も変化し、飲食業界のコーヒー需要が落ち込み、家庭用の消費が伸びるなど、業界の志向が転換しつつあることや、味の素ゼネラルフーズやサントリーの業界参入などの動きもあって、今までのような業界を特殊部落化し、業界内だけのルールで商売をしていくというやり方が、もう長続きしないことがハッキリしてきたため、私どもアウトサイダーに対する締付けが弱まってきました。
有能なスタッフ
威力を発揮
また、日珈販自体も本年度に予想される本部年商は2億5千万円と、その業績を伸ばしてきており、数年後には東京地区における焙煎業者の中堅と肩を並べることができると思います。
この内容も、他の焙煎業者と違って、売り渡し先は加盟店と決まっておりますので、商品数は少なく、売り上げ代金の回収も確実なので、効率的な経営ができるものですから、急速成長をしてもガタがくるようなことは全くありません。
そもそも日珈販の赤字経営の原因は、有能な人材確保のための人件費負担にあったのですから、今日ペイラインに達してくると、ますますその威力を発揮します。
今後は本部の商品取り扱い高の増加に従って、さらにスケールメリットを追及できるようになると思いますので、かねてからの懸案であった資金難も次第に解消して、いっそうスケールメリットを生かす商品取り扱いもできるでしょうから、本部の力も増大するばかりだと思います。
そんなわけで、少々の圧力には屈しないだけの力が日珈販についてきたのですが、そうなってくると私の書きたい欲望が押さえきれなくなってきました。
とはいうものの、私の周辺にはいろいろ書かれては商売にさしつかえる方も多いので、全く生の形で書くことはできません。
そこで「珈琲屋風雲録」といった読み物として書いていきたいと思いますので、一つ識ある方は字の裏の裏までお読みとりいただきたいと存じます。


珈琲屋風雲録 第一話


1975年7月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
珈琲共和国1975年7月
珈琲共和国1975年7月

 現在、社団法人日本フランチャイズチェーン協会の正社員は28社、準会員9社である。
 その中で、コーヒー業界からは正社員で日珈販が、準会員でダイタン商事が加盟を認められているだけである。
 規模や歴史は別として、わが国の公共的な組織から一応フランチャイズチェーンの本部として適格であると認められたのは、この2社だけであるということになる。

ぽえむ珈琲専門店へ
 業界誌の広告などをみると、沢山の企業がコーヒー店のフランチャイズチェーンの加盟店を募集しているが、これらは客観的にみるとフランチャイザーとして適格でないということになる。
 善意に考えてみて、アメリカなどでフランチャイズの団体が山師の集まりという風にみられた時期もあるので、それで協会を敬遠しているとみれないこともないが、それならフランチャイズなどという言葉を使って加盟店募集をしない方がよいと思う。
 悪意に考えて、協会に入るといい加減なことができないから入らないのだとも考えたくなるが、協会自体だってまだこれからなのだから、どしどし加盟してみんなの手でフランチャイズを立派なものにしたいものである。
 さて、私は何も協会のPRのために筆をとっているのではない。なぜ、ぽえむがフランチャイズというものを始めたのかということを書きたいのである。
 つまり、あの永島慎二さんの漫画に出てくる時のようなアットホームなぽえむを捨てて、珈琲専門店のチェーン化などという大企業的な臭いのすることをオッパジメタのかということを知ってもらいたいのである。

最初の2年は給料もなく
 私は、最近人に会うごとに「随分儲かっていそうですね」とか「そんなに儲けてどうするのですか」などといわれる。
 だから、大半の人々は私が儲けるためにコーヒー専門店のフランチャイズを始めたと思っているようである。
 しかしそれは違う。
 確かにぽえむの各店はどれも繁盛し、よく儲かっている。だが、間違ってほしくないのは、繁盛している店のオーナーは私ではないし、儲かっているのは私ではなくその店のオーナーなのである。
 実をいうと、私も阿佐ヶ谷西店、下高井戸店、吉祥寺店の3店をぽえむでやらしていただいてるので、この3店分に関しては儲けさせていただいている。
 だが、本部が儲かっているかというと、それは間違いである。
 今だからいえるが、日珈販という会社を作ったお蔭で、私が個人的に損したお金は1500万円。そして日珈販の赤字がトータルで1400万円ほどになるから、日珈販に注ぎ込んだお金が約3000万円ということになる。
 しかも、日珈販を作って約2年間は、私は一銭も給料をもらっていないのだから、それも計算するとえらい損になる。
 幸い去年から日珈販も少少なりとも黒字になりはじめて来ており、多少なりとも給料を払っていただくようになったので、告白することもできるのだが、取引先や銀行や、そして女房などには聞かせられない話だったのである。

業界への怒りがFC化に至る
 それでは、一体なぜ私が得にもならないことを始めたのだろうか。
 名誉欲であろうか。それとも自己顕示欲であろうか。
 それも確かにないとはいえないことはない。
 しかし、それだけではこんな高い代償を払ってまでやろうとはしなかっただろう。
 私がチェーン化してやろうという気になった本当の理由は、怒りである。腹が立って仕方がなかったからである。
 では、一体何に腹が立ったのであろうか。
 直接の対象となったのは、コーヒー業界の仕組みに対してである。
 喫茶店のオヤジ連中をたぶらかしてヌクヌクと儲けている焙煎業者。そして焙煎業者がそんな商法をとらざるを得ないように仕向けている喫茶店のオヤジ連中。この両方に腹が立ったからである。
 そして、その対象を通じて、業界のご都合で何事もケリが付き、消費者は常に業界の都合のよいものを押しつけられている、この日本の産業界の仕組みに怒りを感じたからである。
 そして、その怒りをさらにかきたてたのは、いくら正しくてもいくら論理をつくしても、経済力という暴力のもとに零細な業者の声は無視されるということへの怒りであった。
 その怒りがエネルギーとなって発展して来たのが、この日珈販という組織であり、その組織を効果的に動かすための手段として導入したのがフランチャイズシステムであったのである。
 だから、私が、このぽえむチェーンを作るにあたって考えて来たことは、金がないものがどうしたら巨大な資本をもった企業と太刀打ちできるだろうかということなのである。
 ところが、実際に始めてみると、これがまた、とほうもなく資金の要する仕事だったのであった。

珈琲屋風雲録 第二話


1975年8月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年8月
珈琲共和国1975年8月

ハードな生活に堪え、トンネルを脱出

焙煎業者のサービス
日珈販というフランチャイズ本部を設立するにあたって、私が財政面での計算を怠っていたのではなかったのだが、実際に始めてみると予想をはるか上回る出費であった。
かりそめにもフランチャイズの本部を名乗るからには、たとえ加盟店が1、2店舗であろうとも、100、200店を有するチェーンの本部機能と何ら変わることなき機能を備えていなければならないことは承知していた。そして、その本部機能が、いわゆる焙煎業者のセールスマン達が、新しい喫茶店開発業者のためにコーヒーの淹れ方を教えたり、店のデザイナーを紹介したり、施工業者をあっ旋したりするのとは本質的に違うということも理解していた。
しかし、いざ本部として加盟店の指導にあたってみると、その重要性の何かを知るに従って自分達の責任の重大なことに驚き、恐れ、途方にくれたというのが本音なのである。
私はフランチャイズの本部を運営してみてつくづく考えるのだが、いわゆる焙煎業者達が、いとも簡単に喫茶店の開発希望者にコーヒーの淹れ方を教えたりの程度で店を開かせたりしているのをみて、一体彼らは自分達の行っている仕事の重大さを知ってやっているのかと思わされてしまう。
それは、たとえそのディーラーヘルプともいうべき行為が善意であり、無償の行為であったとしても、開店希望者にとってはそれが開業までの唯一の導きであり、さらに、数百万数千万という多額のお金をその店に投資させることになっているということを自覚しているのだろうかということなのである。
彼らは、自分達はサービスでやったことなのだから、金を貰って教えたりアドバイスしたりしたわけじゃないのだから、責任は負えないというかもしれないが、お金を投資する側にとっては重大なことで、場合によってはその人の事業の成否ばかりでなく、生命にもかかわる問題ともなりかねないのである。
かつて、私が一介の素人として阿佐ヶ谷に店を開き、その道のプロフェッショナルだと信じていた人達のアドバイスを受けて商売した結果が、結局、睡眠も食事も着るものも十分でない、ただ食べて働いて眠るだけの生活を数年の間させられたことで、彼らがいかに商売にかけては素人で無力であるかということを骨のズイまで知らされている。
幸い私は何とかそのハードワークに堪えることができたし、そのトンネルも自分のやり方を開発することによって脱出することができたが、もしあのままであったら、私も最後には健康を害して一家心中でもしていたかも知れないと、ゾッとすることがある。もっとも、その当時のハードな生活がたたって慢性腎臓炎となり、完治するのに5年もかかったのだから、心中する前に死んでいたのかもしれないのだ。

自社配送を始める
私もフランチャイズの本部をやるからには、そんないい加減なディーラーヘルプのなりくさしのようなことではなく、必ず成功する店作りと営業の指導を行いたいと思っていたから、それなりの準備をしてかかったのだが、実際の仕事を始めてみると、その仕事の奥の深さには絶望的な思いをさせられたのである。
そのまず第一は、人材の問題であった。
今でこそ、営業担当常務取締役に加藤久明(元木村コーヒー店取締役)を得、また、開発担当常務取締役に久保寔(元東洋冷食開発室長)を加え、若いスタッフも順調に育って、社外スタッフの矢花清一(インテリアデザイナー)、笹岡信彦氏(双美工房代表・グラフィックデザイナー)等の積極的な協力もあって、スタッフの充実度という点では、コーヒー業界で他にひけをとるものではないと自認していますが、発足当時は現指導課長の小高正三や現総務担当常務取締役黒沢庸五と私などが何から何まで陣頭に立ってやっていたわけですから、今から考えれば不満なことだらけだったわけです。
その上、計算外のできごととして、商品等の自社配送を行うという必要が起こってきたのです。
当初、私どもは、その当時の取引先であったキャラバンコーヒーにすべて商品の原材料の供給をお願いしており、われわれ本部は純粋にノウハウのみを提供すべき組織として運営していくつもりでした、
ところが、私どもの加盟店である吉祥寺店の近くにある三浦屋さんというスーパーでキャラバンコーヒーの売店コーナーを設けられたことから話がこじれて、結果、自社配送に踏み切らざるを得なくなったのです。
それはどういういことかといいますと、私どもは現在でも当時でも、私どもぽえむ独自のオリジナルブランドのコーヒー豆を発売しており、その加工に関しては、他の得意先のものとは別個に特別注文で行っておりました。
今でも、他の店で売っているコーヒー豆より高い値段がついていますが、これは原材豆、加工方法等すべてに関して品質第一に考えているから、必然的にそうなるわけですが、それを三浦屋さんでは、全く同じコーヒーを安く売っているという風に説明されたようなのです。
その結果、吉祥寺店、店長が顧客から詰問され、それが全加盟店で真相はどうなのだという問題にまで発展し、とうとう最後にはキャラバンコーヒーの工場から直納してもらい、自社配送するということで当座のケリをつけたのですが、結局、この問題は尾を引き、キャラバンコーヒーとの取引きを解消するまでの事態に発展したのでした。
さて、そのようないきさつがあって自社配送を始めたのですが、これが経済的には大きな誤算であったのです。

珈琲屋風雲録 第三話


1975年9月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年9月
珈琲共和国1975年9月

出入り業者にお叱りを受ける
▶最初の誤算◀
日珈販というフランチャイズ本部を設立するとき、私共は、商品の製造や配送などはやらずに、商品(メニューを含む)の販売一本槍で進む方針を固めていました。
日珈販発足当時は、珈琲豆の元卸原価も低く、自社焙煎でもやれば結構いい儲けにになる状勢にあったのですが、私はそのようにボロイ商売が長続きするわけがないし、又、製造工場の設備投資やその償却等を考えてたら決して割に合う商売ではないと考えておりましたし、生豆の買付や加工技術の修得などそう簡単にはいかないと考えておりましたので、製造に手をつけるのは一切タブーだと考えておりました。
ある生豆問屋などから、資金の面倒はみるから自社焙煎をやれとすすめられたのですが、私はあくまで販売一筋で通すつもりでしたので、そのようなお話は全部お断わりして参りました。
同様に、配送に関しても焙煎業者の方達が大変な苦労をされているのを知っていましたし、配送センターや倉庫、車輌の問題と、手間やコストのかかることは一切やりたくないと思っていたのです。
そして、そのような仕事に費やすエネルギーを、知識集約、ノウハウの開発に振向けることによって、シンクタンクとしてのフランチャイズ本部の完成を目指していたのです。
ところが、特に敬遠していた配送という業務を、キャラバンコーヒーの得意先とぽえむの加盟店とのトラブルが原因で始めざるを得ない羽目になってしまったのですから、大誤算もいいところでした。
▶やればやるだけ損◀
幸い、配送センター兼事務所として、私の家内の実家の持家がちょうどおソバ屋さんに貸してあったのが戻って来たので権利金・敷金なしで借りられたので助かりましたが、車輌費とか配送関係の人件費とか、その後の経費の増加は加盟店の少ないチェーン本部として頭の痛い問題でした。
その上、本部の商品資材の取扱い高も少なく、スケールメリットを生かして安く仕入れるような態勢じゃありませんでしたので、商品や資材を扱えば扱うほど損をするといったような状態でした。
コスト分だけのマージンを本部から供給する品物にかけると、ちょうどマージン分だけ市価より高くなってしまうというのが実情だったので、損をしてもいたしかたがなかったのです。
おまけに、加盟金も当時は5万円とベラボウに安かったので、開店があると開店に費やした分だけ赤字になるという大変な経営だったのです。
その上、やっと配送業務になれて来て、そろそろ経済性ということも追求しようとしていた矢先に、オイルショックにぶっつかり、正直に安く仕入れた品物は安く売ったところ、品物を売れば元値よりも高い値段で品物を仕入れるという逆ザヤ現象で、アッというまに数百万円の赤字をかかえる結果となってしまいました。
ちょうどその当時でしたが、社長の私と経理担当役員の黒沢庸五の二人が、キャラバンコーヒーの永田浩平会長と日本珈琲貿易の武田太郎取締役に、経営者としては無謀かつ失格であるとお叱りを受けたことがありました。
考えてみれば出入業者から文句をいわれているのですから割の合わない話なのですが、相手方にすれば、売った品物の代金がとれるかとれないかの境目みたいなものですから、文句の十や二十もいいたかったのは無理もないと思います。
▶反骨がエネルギー◀
私は私なりの目算もあり、あるスケールに達すれば会社もペイすると考えておりましたのでシャクにもさわったのですが、現実に儲かっていないものを偉そうな口を利いても仕方がないと思いましたし「何クソ」という反抗心が私の場合常に仕事のエネルギーに転化されて来ていますので、今となってみれば感謝している次第なのです。
元来、私に限らず土佐人の言うことは、他人から見ると大ボラ吹きに見えるらしく、阿佐ヶ谷に店を開いたときから、私の家内をはじめみんなにホラ吹き扱いをされているので私はもうなれっこになっているのですが、事業の計画などについて相手に説明するときなどは相手が本気にしないので困ってしまいます。
私には、その事業の計画についてビジョンがハッキリしており、どの時点ではどうなり、どの時点でどの位の赤字だがどこまで行けばペイするというようなことがわかっていて、それをキチンと説明しようとしても相手がまともにとらないのには参ります。
私が、コーヒー豆の挽き売りを始めたときも、いくらコーヒーの消費が家庭用に移っていくといっても、そしてそれが5、6年以内にブームになるといっても誰も本気で聞いてくれませんでした。
又、コーヒー専門店が素人にでもできる商売だということでも、私は4年ほど前、ブームが来るずっと前に柴田書店発行の「喫茶店経営」という」雑誌に書いています。
近頃の業界誌などみますと、私が数年前に書いたことをさも新しい考えのように書いてあるのをよく見かけますが、もし本当に新しい考え方だとか商法だとか思っているのなら私の書いたものを読んでいないわけで、ずいぶん不勉強な人だと思います。
それはさておき、私がフランチャイズという商法が将来わが国でも盛んになると思い、展開を計ろうとしたわけですが、その時パートナーとなってもらおうと考えていたキャラバンコーヒーさんが日本珈琲貿易さんが本気にしてくれなかったのには全く困りましたし、かつ大変な誤算でもあったのでした。