ブラジル霜害ウラオモテ


1975年10月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年10月
珈琲共和国1975年10月

①コーヒーで乾杯!

「ブラジル霜害によるコーヒー豆の値上がり……」というニュースが新聞や週刊誌などで大きくとりあげられていますが、ブラジルに数年間生活した私としてはその記事を読んで思わずニヤリとした次第です。
というのは、石油ショック、大豆禁輸等々、このところ資源国ナショナリズムが大いに気勢を上げているのを見て、ブラジルは、一体いつこの流れに乗っかるつもりだろうかと他人事ながら心配していたからなのです。資源国はアメリカを除き、殆どが開発途上国家群で占められています。
中近東諸国が石油の出し惜しみでボロ儲けしているのを、これら開発途上国家群がどんな気持で眺めており、ヤキモキしていたか、それを想像するといささか悲喜劇じみて参るわけです。そんなとき「霜害で値上がり」のニュース、ヤレヤレこれでやっとブラジルも儲け口を見出したか……と、そこはブラジル贔屓をもって任じる小生、思わず愛すべきブラジルのために値上がり前のコーヒーで乾杯してしまったという次第なのです。

②コーヒーはギャンブル?

ブラジルでは農業を「ギャンブル」であると規定しています。特にコーヒー豆生産の賭博性は昔からブラジル人の喜憂の種でした。
ブラジルコーヒーの主産地といえばサンパウロ州とパラナ州、このあたりは高度が海抜千メートル前後とあって、七、八月の冬季に霜の降ることは決して珍しくはありません。もし霜が降らないと・・・大豊作。コーヒー豆は暴落し、その売値はトラックの運搬量さえも出ない・・・というわけです。だから昔からそんな大豊作の年には、政府の指導で山積みされたコーヒー豆を焼いたり海洋に投棄したり、それはそれは悲しい苦労をしていました。
そこにパラナ州の「霜害」です。どんなにかコーヒー生産者たちは喜んだことか。きっとサンバにのって踊り狂いたいような気持だったでしょう。とにかくブラジルのこと、「霜害で値上げ」はあまりにも単純すぎる理由です。私に言わせれば、むしろ過剰生産が不要になっただけでも儲けもの・・・といった最初のイメージでした。
ブラジルは資源国としてコーヒーのほかに鉱物資源がありますが、後者については余程政治情勢に変化が生じない限り、不作という理由が起こりません。
ブラジルで生産されるコーヒー豆はすべて「ブラジル珈琲公団」によって管理され、組織的かつ計画的に売買されています。その点では中近東の石油とほぼ同様で、国際的大資本の石油メジャーならぬコーヒーメジャーといったものが存在しない以上、そのコントロールは石油よりはるかに簡単と見なければなりません。「霜による不作=値上げ」というのはあまりにも図式的すぎるようです。とにかく資源ナショナリズムは遂に珈琲の世界にまで波及したわけです。日本の珈琲業者の皆さん、それに喫茶店業界の皆さん、皆さんのすべてが値上げの理由を握ってヤレヤレということにもなりましょう。

③嘆きの日系珈琲史

今から七十五年前、最初の日本人移民が笠度丸でブラジルに渡って、配置されたのは珈琲畑でした。テント小屋にも等しいバラックに雑居させられ、奴隷にも等しい待遇の下で働かされた彼らは、夜になると自分たちの運命を呪い嘆いたと語られています。そんな生活の中で彼らの希望は≪いつの日か祖国日本に錦を飾って帰国する≫ことしかありませんでした。しかし、それは日本の敗戦ですっかり夢と果てたのでした。
ブラジルで、私は多くの日系の老人から昔のコーヒー園入植時の辛い思い出を聞かされました。それはこの短い文章ではとても書き尽くせない内容です。いつか私はこの珈琲共和国に、それらの話を書きたいと思っています。
一杯の香り高い珈琲を啜るとき、わたしはいつもあのブラジルの日系老人たちから聞かされた昔話を想い浮かべるのです。真白な湯気が一瞬とぎれたカップの中のコーヒー色の面に、当時の日系移民たちの経た苦しみの地獄絵図が描かれているように思えてならないのです。よほど彼らの話が私の心の奥底深く印象づけられているのでしょう。

④ビーバ・カフェ!

日系移民の社会的地位は大きく向上し、かつては奴隷として入植した珈琲園の経営者層となっている人も少なくはありません。私は、地球の反対側から遠くブラジルの日系の人々のイメージを想い浮かべるとき、今度のコーヒー豆値上げはどうか彼らに最も厚い恵みの機会となりますように、と願わずにはいられません。とにかく商社や政府という大組織だけへの恵みの機会となることについては、お断りです。
あの珈琲の茶色の液体には、言語では表現できないほどの悲しくもニガい人間の歴史が秘められているのですから……。
(山下規嘉)