1973年4月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
一、専門家のいない
珈琲専門店
コーヒー党宣言も本号でいよいよ2年目に入りますが、コーヒーを取巻く国際的、国内的環境は共に厳しさを増しているようです。一方、昨年あたりから急速にブームを呼んでいる町の珈琲専門店も、その数を増しているようですが、この方は、その人気という美酒に溺れて、コーヒーに関する種々の厳しい要因には気付いていないようです。
その証拠に、相も変わらず珈琲専門店といえば、サイホンをカウンターの上に並べ、メニューに数種類のストレートコーヒーとコーヒーアラカルトを加え、ただ店先にコーヒー豆やコーヒー器具を陳列してあるだけの店が、次々に生まれています。
そんな店で試しに少しばかり専門的な質問をしようものならとんでもない答えが返ってくるのが常で、たまりかねて私が本当のことを教えると、この客はオレの店にケチをつけに来たのかという顔をされます。ですから、私はもうこの頃はそのような大人気のないことはしないで、もっぱら私達のチェーンのマニュアル作りのモルモット代わりにいろいろな質問をさせて頂き、その珍妙なる解答を大いに参考にさせて頂いています。
二、業者を殺す
業界近代化
さて、最近のコーヒー業界の動きについて、私にはどうもわからないことがあります。その第一は、毎度目の敵にいている共同焙煎工場のことです。私達喫茶店の業者は、今日まで少なくとも自分の店独自の味を出すということ、つまり個性を売り物にしてきました。その当然のなりゆきとして、取引先の焙煎業者を選ぶ基準にその業者の個性というものを重視してきたはずです。
一方、業者にしても、独自の技術を持つことを売物にしてきたはずです。すなわち、業者の技術というものは、その業者のキャリアであり、訓練された職人であったはずです。それを武器にして、業者は独自の配合を行ない、焙煎機を選んで独自の焙煎加工を行ってきたはずです。
ところが、共同焙煎にするということになると、業者はまず独自の焙煎機を持つことができなくなります。第二に独自の職人も持てません。すなわち、焙煎業者はすでに焙煎業者でなくなってしまうということです。
こう私が申しあげると、業者の方は我々独自の配合があるとおっしゃるかも知れませんが、豆の配合なんてものは、私のような喫茶店のオヤジ風情でもできることです。そんなことよりも焙煎こそ豆の味を決めるということは、業者の方々が十分に存じているはずです。
私にいわせれば、共同焙煎などということは、業界近代化という美名のもとに行われる企業の統合、乗取りです。個性的な独自の商品を持たない業者たちは結局、値段や商品の無料提供や配送回数の増加等販売コストの増加することで競合しなければならなくなります。こうなれば、共同焙煎で得た製造コストの減少なんてメリットはたちまちふっとんで、残るのは業績の悪化だけです。そして次に来るのは会社の倒産か、共同焙煎工場設立にからむ大手資本への吸収・系列化ということになり、親の代から続いた味の名門も終わりを告げることになるわけです。
我々コーヒー党にとって焙煎業者が倒産しようが合併されようが関係のないことですが、折角楽しんできた個性的な味が失われて文明の進化?と共に砂漠化しつつある我々の生活が、またまたコーヒーにまで及んで、規格化された品物を飲まされるのかと思うとウンザリしてしまいます。
もっとも、焙煎業界における近代化の名のもとに大手資本の支配体制の確立に手を貸しているのは焙煎業者だけではありません。珈琲専門店の看板をかかげながら、取扱い商品に対する知識が皆無で、取引き先の言いなりになっている店の態度こそ責められるべきです。店の側に商品を選別するだけの能力があれば、業者のいい加減なやり方を認めるはずがないし、業者だって独自の商品作りにもっと真剣になるはずです。
三、味音痴のコーヒー通
もっと話を進めれば、能書きばかり達者で味音痴のコーヒー通が多くて、いい加減なコーヒー専門店でも立派に通用するからだということになりますが、それでは我々コーヒー党を本当のコーヒー通にするだけの美味しいコーヒーを飲ませてくれたかということになると、これは全くニワトリとタマゴのどちらが先かみたいな話になります。いずれにせよ美味しいコーヒーが飲みたいですね。