「(株)日本珈琲販売共同機構 機関誌 アーカイブ」カテゴリーアーカイブ

1971年設立 (株)日本珈琲販売共同機構 設立者 山内豊之が執筆した機関誌のアーカイブです。

メリタのPRする6gコーヒーは本当に安上がりか?


1975年11月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年11月
珈琲共和国1975年11月

最近、コーヒー業界の話題になっていることの一つに「メリタの6gコーヒー」があります。
今までのわが国コーヒー業界の常識としては、コーヒーのカップ1杯あたりの標準使用量は10gということで、コーヒー専門店などでは12gから15gも使用するところがあります。
私共ぽえむでも、ジャーマンロースト1杯あたり12gというのが基本ですから業界の常識とは大して変わっていません。
ところが、今度メリタでインスタントコーヒーより安いということで6gコーヒーの宣伝を始めたものですから、近年喫茶店のコーヒーの消費量が年を追うごとに落ち込み始めているコーヒーの卸業者(焙煎業者)が、これ以上コーヒー消費量が減ってはたまらないとカンカンになって怒り狂っているようです。
7月号の本誌でも6gコーヒーを取り上げたところいつも本誌を目の敵にしている焙煎業者の方から、攻撃の仕方がてぬるいではないかと妙な励ましの言葉をいただき、当惑させていただきました。
私はこの6gコーヒーについては、7月号でも述べたとおり、あくまでもコーヒーを飲む本人の好みであって、6g使って淹れようが2g使おうが、それは本人の勝手だと思います。
ですから、メリタが6gコーヒーをPRしているからといって、メリタを使って淹れているぽえむのコーヒーを6gに減らす気は全くありません。
ぽえむはぽえむの味として研究し、創りあげてきたコーヒーの美味しさを絶対に崩す気はありません。
しかし、コーヒーを飲む当人が、自分は6gしか使わない薄いコーヒーがよいというならば、それに反対する気も全くありません。
そんなことより、私は6gコーヒーの方が安上がりだというメリタの主張も、6gコーヒーが普及したらコーヒーの消費用が減るという焙煎業者の主張も、どちらも間違っていると思います。
なぜならば、私が見たところではコーヒー好きな人ほど薄いコーヒーを好む傾向があるからです。そして、薄いコーヒーほどお腹にたまらないので何杯もお代わりできるからなのです。ということは、薄いコーヒーだとついつい飲みすぎて安上がりどころか買って来たコーヒーがたちまち底をつくということになってしまいそうです。ですから、私は焙煎業者の方たちが心配するようにコーヒーの消費量が減るどころか、かえって増えるのではないかと思うのです。
ただし、これはあくまでも家庭用のコーヒーの話であって、コーヒー専門店や喫茶店などではふところの都合でコーヒー代のお代わりがすすむというわけにはいきません。
やはり高いお金をとってコーヒーを提供するからには、1杯で充分に満足していただけるだけの中味をもったコーヒーを提供すべきでしょう。
むしろ6gコーヒーで気になるのは、極細挽き(ファイングラインド)にしろということの方です。
メリタの生まれ故郷の西ドイツのように良質のコーヒーが輸入されているところなら、いくら細かくなっても問題はないでしょうが、わが国で売られているようなアフリカ産のロブスター種や安物のアラビカ種のたくさん入ったコーヒーを細かく挽いて、それに含まれている成分を充分に抽出したら、そんなことになるでしょうか。
私は、そのためにせっかくメリタで淹れたコーヒーがインスタントコーヒーよりまずくなって、再びレギュラーコーヒー党をインスタントコーヒー党に追いやる方が心配です。
実のところ、私はたいへん薄いコーヒーが好きですが、たいがい濃いコーヒーを湯で割ったり、ちょっぴりぜいたくをするときは多量のコーヒーを粗挽きにしてさっと手早く淹れて飲んだりします。
まあそれがいちばんコーヒーの美味しい飲み方でしょう。
でも、もしもメリタがPRするように6gコーヒーをファイングラインドで淹れて、そして美味しいコーヒーが飲めるものならそれにこしたことはありません。
私も、そんな美味しい良質なコーヒーがフンダンにある国に、日本がなってもらいたいと思います。

珈琲屋風雲録 第五話


1975年11月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年11月
珈琲共和国1975年11月

業界に旋風おこる
メリタ取扱いがきっかけ——-
私共と日本珈琲貿易さんがお近づきになったのは、メリタ製品の取扱いがきっかけでした。
ある日、私のところへキャラバンコーヒーの当時の城南営業所長であった沢田邦彦君(現営業第二部長)と日本珈琲貿易の鈴木正章さん(現キタヤマコーヒー)が連れ立って来られて、今度メリタの日本総代理店としてメリタの商品を輸入するから使ってくれないかと言います。当時ぽえむではカリタ製品を使っておりましたし、カリタさんからは開店当初少しシーリングの甘いフィルターペーパーをたくさん無償でいただいた義理もあったので私は気乗りがしなかったのですが、鈴木さんが非常にメリタ製品普及に情熱を持っておられたのと、ちょうどその頃使っていたデミタスカップの口にカリタの101型が合わず抽出したコーヒーが洩れて困っていましたので100型(現1×1型)という1人用のものを使わせていただくことにしました。
使ってみるとペーパーの質はメリタの方がよく、プラスティックのフィルターの無機質も、当初心配したような客からの反発もなく、軽くて使いやすく、カップのフチを傷つけるようなこともないので、次第次第に全面的に採用することにしました。
そんなことがご縁で、私共と日本珈琲貿易さんとはキャラバンコーヒーさんを中にはさんで親しくなりました。
最近ではメリタもすっかり有名になりましたが、当時メリタを真面目に取り上げようと考えたのは、わが社の他に、キャラバンコーヒーさんと京都のオガワコーヒーさん位のものでしたから、自然日本珈琲貿易さんとわが社はメリタを通じて親密の度合いを深めていったのです。ですから当時の私共としてはメリタの輸入総代理店としてメリタ商品の販売を伸ばそうとする日本珈琲貿易さんと、メリタによるコーヒーの抽出とメリタ商品の販売ネットを創ろうとするわが社が提携しようといっても、決して不思議ではなかったのです。

コーヒー業界の商習慣——
しかし、その当時も現在もわが国のコーヒー業界は商社・生豆問屋・焙煎業者の結束は固く、喫茶店の経営者や一般消費者には絶対に手の内を見せないというのを商習慣にしていますので、私共のような喫茶店業者と生豆問屋の日本珈琲貿易さんが、たとえキャラバンコーヒーさんという焙煎業者が仲介してとはいえ、直接に接触するということは大変なことで、このことは業界内部で、当の日本珈琲貿易さんはもとより仲介したキャラバンコーヒーさんへも風当たりが強かったようです。
私が考えるところ、両者ともに業界では力のある会社ですからウルサク言われた位ですんだのでしょうが、これが弱小業者だったら軽くて私共へのお出入り差し止め、重ければ業界の村八分ということになったでしょう。
私にいわせると、本来商売というものは相手にその商品の内容をキチンと話をして、その内容にふさわしい値段で売り渡すのが正しいあたりまえの取引の仕方なのですが、コーヒー業界では、喫茶店などの経営者に情報を与えずして無知におとしいれ、その無知につけこんで法外な値段でコーヒーを売りつける商法があたりまえでしたから、そのようなセクト主義、秘密主義を貫く必要があったのでしょう。
ある焙煎業者がブラジル4、コロンビア3、モカマタリ3のブレンドだと称しているコーヒーが、実はブラジルのIBCといわれる格下品とアイボリー・コーストのロブスタ種やペルーの安物しか配合されていないなどということは業界では珍しくありませんでしたから、零細な規模の業界でなかったらとっくの昔に公正取引委員会のヤリ玉にあがっていたでしょう。私はそのような事実を焙煎業者の退職者から聞き出し、マスコミなどに暴露しましたから、私に対する業界の反発はたいへんなものでした。
いくら業界から反発されようと、私には私の考えを支持して私の店でコーヒーを飲んでくれる顧客がいますから全然平気でしたが、私への情報提供者というヌレギヌをかけられた日本珈琲貿易さんやキャラバンコーヒーさんはとんだ迷惑だったであろうと思います。
そんなことですので、当時日本珈琲貿易の武田佳次社長の先見性と決断と勇気がなかったら、とうていそんなことはできなかったでしょう。

珈琲通Mさんのお話


1975年12月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年12月
珈琲共和国1975年12月

私の友人にMさんという食通をもって自認している人がいます。ご多聞にもれずMさんは、フランス料理はあそこ、和食ならこことごひいきの店は決まっていて、めったな店へご招待しようものなら大恥をかくという大変なお方なのです。
そのMさんが大の苦手としている人物が一人だけあります。それが私なのです。
私がまだ阿佐ヶ谷西店でコーヒーを毎日淹れていた5年半ほど前、Mさんは常連さんとして私の店に毎日足を運んで下さいました。
Mさんはある有名な大学の教授で、食通ぶりをオーバーに主張される以外には全くの好人物で、私も家内も、そして店の常連さんもすぐ仲良しになったのですが、ただ一点だけ食通(珈琲通)を振回されることが、我々の悩みの種でした。ご自分が召し上がるコーヒーについていろいろおっしゃるのはよいのですが、他の人のコーヒーの飲み方、そのメニューの選び方にまで一々文句をつけるのですから他の常連さんたちはたまったものではありません。陰で「M公害」などと言っていた間はよかったのですが、顔見知りがふえ、新密度が増すにつれてその博識ぶりはますます猛威をふるい、しまいにはMさんがいるとあとで来るといって帰る人まで出てきたのです。
そうなると、私も営業にかかわるので、申し訳ないけれどMさんの珈琲通の鼻をペシャンコにする必要があると判断し、M公害撤去作戦に乗り出したのでした。
都合のよいことに、Mさんは珈琲通としてブルーマウンテンNo.1しか飲まないと称していましたから、当分の間毎日ニセモノのブルーマウンテンを飲ませて珈琲通としての自惚れをコテンパンにやっつけてやろうと思いました。
それから10日間ばかり、私はMさんにニセモノのブルーマウンテンを提供しました。あんまり違いのあるものではすぐバレるのでメキシコ、コスタリカ、フォンデュラスなどアラビカ種の水洗式コーヒーを数種類選んで、毎日ニセ・ブルーマウンテンを飲ませたのです。
そうとは知らずMさんは「さすがブルーマウンテンNo.1の味は違うなア」などと言いながら、さも美味しそうにコーヒーを飲んでいきます。正直な話、あんまり率直に美味しがられるので本当は我々のたくらみを知っていて、トボケているのではないかとも思いました。家内などは、もういい加減にしたらと言い出したり、Mさんが店に入ってくると急にふき出して、当時住居としていた2階へ駆け上がったり、人をだますのも楽ではないなという思いもしました。そして、いよいよ我々がMさんに真実を告げる日が来ました。
ところが、いざとなると「貴方がこの10日間、ブルーマウンテンだと美味しがっていたコーヒーは全部ニセモノだ」などとは言えそうにもありません。何しろ相手は率直にホンモノだと信じているのですから……。
しかし、そうは言ってはおれません。断固実行しなければ、我々はもちろん常連一同もM公害から解放されないのですから。
×      ×      ×
Mさんは私の話をじっと聞いていました。この10日間ニセモノばかり飲ませたことも、みんながMさんのコーヒーに関するウンチクをM公害と称して迷惑に感じていることも、またM公害さえなければMさんはとても良い友人だと話していることも……。Mさんは一言も口をはさまず私の話を聞いていました。
最後に私は、今までみんなニセモノだったからこの10日間のコーヒー代を返すとお金を差し出しました。するとMさんは急に「それはいけない!!」と大きな声で言って、お金を私に押しもどしました。「僕はブルーマウンテンだと思って飲んでいたんだ!!そしてとても美味しかった。満足してるんだ!!だから、それはそれでいいんだ!!」
そして、てれ臭そうな笑いを浮かべながら「本当のことをいうと僕は何も判らないんだよ、コーヒーの事は……。でもいつのまにか珈琲通にさせられてね。ひっこみがつかなくなってね」というと、大きく伸びをして「マスター、ジャーマンをくれよ!!」と言ったのです。
それ以来、カレはジャーマン党になりました。「ジャーマンなら安いし、美味しいものね」。
×      ×      ×
2.、3日前、私は新宿でバッタリMさんに会いました。そして、カレの行きつけのコーヒー専門店へ連れていかれました。ところが、そこでMさんは珈琲通ぶりを発揮しているではありませんか。私が変な顔をしているとMさんがウインクしながら言いました。「新しいバーテンが入るとね、ここのマスターとグルで教育するのさ。ところでマスターを紹介するよ」
指さす方向を見て私はびっくりしました。そのマスターこそ、私と一緒にMさんをたぶらかす企みをした当時の大学生の常連さんだったのです。せ

珈琲屋風雲録 第六話


1975年12月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年12月
珈琲共和国1975年12月

メリタ普及の意味するもの

メリタの感謝状
私事になって恐縮ですが、去る10月21日、私は東京・六本木にあるメリタジャパン社に招かれて、メリタ本社の永年にわたるメリタ製品販売の功績に対して、副社長並びに鈴木真メリタジャパン社長連名の感謝状とメリタ社主からの記念品をいただきました。
この記念品は、メリタ社がベルリンに新しく建設した工場で一番最初にすいたコーヒーフィルター用の瀘紙に、古いベルリンの市街図を印刷したもので、たいへん価値のあるものです。
私は、メリタ製品が日本珈琲貿易社によってわが国に導入されて以来、そのすぐれた機能に惚れ込んで、他のコーヒー器具には目もくれず、一筋にメリタの普及に心を傾けてきましたから、今回感謝状をいただいたことは、その努力が報いられたものとたいへん嬉しく思っています。
私は、メリタが家庭用コーヒーを普及させるのには最もすぐれたコーヒー器具だと考えておりますし、またわが国のコーヒー業界を一部の業者の独占物から、まともな商売に改革させるためには、家庭用コーヒーの普及以外に方法がないと考えておりますので、メリタから金をもらっているのではないかと陰口を叩かれるほどメリタの肩を持ち、メリタの優秀性について業界誌などに書きつづけてきたのです。
掛値無しに考えても、私がメリタの優秀性についてマスコミに書いたり書かせたりしたものを宣伝広告費として計算すれば、1億円以上になるでしょう。
ですから、私やキャラバンコーヒー社、そして日本珈琲貿易社などの努力がなかったら、こんなに早くメリタ社が日本へ進出できなかったといっても過言ではないと思います。

日珈販オーナーは珈琲業者にあらず?
ところで、それにしてはメリタ社の私に対する態度はつれないものでした。つまり、私がぽえむというコーヒー専門店の本部のオーナーで、焙煎業者でないために、メリタ社では私を無視してきたのです。
もっともこれはメリタ社が悪いのではなく、コーヒー業界のタブー(商社や生豆問屋や焙煎業者のみが仲間うちの商売をする)を慮ったもので、もしメリタ社がおおっぴらに私共と直接取引でもしようものなら、製品ボイコットをしかねないような空気がコーヒー業界全体を支配しているからなのですが、私共にすれば、メリタ普及の功労者を無視してニワカメリタ教信者を大事にするやり方は気に入りませんでしたし、少なくともわが国のコーヒー業界を革新してくれるパワーの一つだと信じていただけにがっかりしたというのが偽りのない気持でした。
しかし、今回メリタ社が私に感謝状と記念品を下さったおかげで、なんとなくそのモヤモヤした気分も吹っ飛んでしまいましたのでまた大いにはり切ってメリタ製品を売りまくろうと思っています。

メリタ普及の真意
さて、このメリタ製品を私に会わせてくれた日本珈琲貿易の武田社長ですが、過日メリタ主催の勉強会『丘上会』で「メリタの普及こそわが国のレギュラーコーヒーの普及を促進するものであり、ひいてはわが国珈琲業界の発展に寄与するものであると信じてメリタの導入を行なった」そして「今回メリタの輸入総代理店をメリタジャパンにゆずったのも、その方がより広く多くの人たちにメリタを使ってもらうことができ、その方がより業界のためになると考えたからである」と話されたそうですが、私も全く同感です。私はアウトサイダーなので丘上会には招かれませんでしたので直接全部のご意見を拝聴することはできませんでしたが、日頃の武田社長の言動から、十分にその真意を推察することができました。

必要な先見性と決断力
このような先見性と決断力を兼ね備えた武田社長あってのことでわが社と日本珈琲貿易社のジョイントベンチャーの話は進行したのですが、現実の問題としてはなかなかスムーズにはいかなかったのです。
まず第一にトップがいくら先見性に基づいた決断を下しても、カンジンの現場は業界のタブーという鎖にガンジガラメに縛りあげられていて動きがつかなかったというわけで、お互いに株を持ち合うという形式上の関係ができても、一向に両者の間柄は親密の度合を深めていくというようなわけにはいかなかったのです。
それでもまだ、日本珈琲貿易さんがメリタの総代理店である場合はメリタの販売についての利害関係がありましたから、まだまだ提携の理由もありましたが、今日のように日本珈琲貿易さんが一代理店となり、私共の買っている特約店が他の代理店から仕入れているなどということになってしまうと、日本珈琲貿易さんが私共と直取引をしないかぎり何のメリットもないということになってしまいますが、これも私共の方から働きかけても駄目なようですから、今やお手上げといった状態なのです。
私は、今やもう焙煎業者はメーカーと問屋に機能分化する時期に来ており、そして分化して考えれば私共チェーン店の本部も焙煎業者も大して変わりないと思うのですが、日本珈琲貿易さんをはじめ、石光商事さん、ワタルさんなどの生豆問屋さんには、そういうタブーに挑戦する勇気がなさそうです。
そうなると、ますますUCCさんあたりのようにユニークで決断力のある企業の方が、シェアを伸ばしていくのではないかと考えたりしているのです。

珈琲屋風雲録 第七話


1976年1月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1976年1月
珈琲共和国1976年1月

山内企画と日珈販
その生い立ちの記

話は少し横道へそれますが、私は今、山内企画という会社と日本珈琲販売共同機構(日珈販)という会社の社長をしています。

~親としての山内企画~
山内企画は、その出資金の大半を私と家内が保有しており、一部を創成期からの同志で現在日珈販の総務担当をしている黒沢庸五君と、日本珈琲貿易さんが保有しています。そしてその会社の仕事というのは、ぽえむの下高井戸店、阿佐ケ谷西、吉祥寺各店を日珈販もフランチャイズ店として経営してしているいわばプライベートな会社です。
ですから、会社の役員も私と家内とそれに黒沢君というパパママストア的規模の会社で、その社風も極めてファミリーな、そしてその経営方針もファミリーな会社なのです。
そのプライベートな会社に日本珈琲貿易さんが出資しているのは少々おかしいのですが、それは、日珈販の創立当時は山内企画が日珈販の株式を全部保有しており、事実上小会社でもあったので、山内企画に出資することは日珈販に出資することと同じであるという考えに立ったからだと思います。そして、そのような考えに至ったのは、当時日珈販の経済基盤が弱くて山内企画におんぶしているような状態だったので、日本珈琲販売共同機構に投資するよりは山内企画に金を出したほうが投資金の保全という事を考えたらリスクが少ない、と考えたからなのでした。それはどちらかというとキャラバンさんの方にその意向が強く、日珈貿さんはその考えに乗ったというのが真相のようです。
私は、山内企画の成立基盤というものが、極めてプライベートな型(例えば、吉祥寺店は私の姉の店を山内企画が経営だけ引き受けているとか、下高井戸店は家内の実家が家内に貸しているものをやはり経営を任されている)の上に成り立っているものですから、山内企画はあくまでプライベートな会社の域を出ないので、日珈販は公共性の強い企業として育てたいと考えておりました。
私は、キャラバンさんにも、日珈貿さんにもそのことを何度か説明をしたのですが、現在に至っても山内企画と日珈販の区別がよく判っていらっしゃらない様子です。
もっとも、最初ぽえむチェーンは山内企画の中にその本部をおいて加盟参加を呼びかけ、永福町店さんが加盟された時点で日珈販という新会社を作って、チェーンの本部機構を移管しましたので、自然そのような混同が起こってしまったのだと思われます。

~親としての日珈販~
しかし、創立当時はともかく、現在では山内企画が日珈販の筆頭株主であることと、私が社長を兼務している他は、全く別の会社として動いており、株主の数も増え、山内企画の持ち株も過半数を割っております。
また、取締役その他のスタッフも山内企画とは無縁な者がほとんどで、社員の意識構造も山内企画なんてものはフランチャイジーの一つにしか当らない、というのが最近の実情なのですが、業界の方や、加盟店の方にも、まだまだ山内企画と日珈販が同じものだと思ってらっしゃる方が多くて困ってしまいます。
このような混乱起こってしまったのも、原因を糺せば、私の強引なやり方に起因するのでしょうが、そのような無茶なやり方でもしない限り、今の日珈販は創り上げられなかったと思います。
ですから、今となっていろいろ問題を残すようなやり方を今の時点で批判することは出来たとしても、それは出来たからいえるのであって、堅実でオーソドックズなやり方なんていうものでやっていたら、日珈販などという新しいユニークな会社は出来なかっただろうと思いますので、私は私なりに最善を尽くしたと思います。
ただ、個人的には、キャラバンさんから山内企画の持分を買いとった銀行借入金の返済や、山内企画が日珈販の肩代わりをした借入金の返済など、あと2年余りは借金の返済に追われるかと思うと、全くうんざりするというのが、本音なのです。