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珈琲屋風雲録 第三話


1975年9月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年9月
珈琲共和国1975年9月

出入り業者にお叱りを受ける
▶最初の誤算◀
日珈販というフランチャイズ本部を設立するとき、私共は、商品の製造や配送などはやらずに、商品(メニューを含む)の販売一本槍で進む方針を固めていました。
日珈販発足当時は、珈琲豆の元卸原価も低く、自社焙煎でもやれば結構いい儲けにになる状勢にあったのですが、私はそのようにボロイ商売が長続きするわけがないし、又、製造工場の設備投資やその償却等を考えてたら決して割に合う商売ではないと考えておりましたし、生豆の買付や加工技術の修得などそう簡単にはいかないと考えておりましたので、製造に手をつけるのは一切タブーだと考えておりました。
ある生豆問屋などから、資金の面倒はみるから自社焙煎をやれとすすめられたのですが、私はあくまで販売一筋で通すつもりでしたので、そのようなお話は全部お断わりして参りました。
同様に、配送に関しても焙煎業者の方達が大変な苦労をされているのを知っていましたし、配送センターや倉庫、車輌の問題と、手間やコストのかかることは一切やりたくないと思っていたのです。
そして、そのような仕事に費やすエネルギーを、知識集約、ノウハウの開発に振向けることによって、シンクタンクとしてのフランチャイズ本部の完成を目指していたのです。
ところが、特に敬遠していた配送という業務を、キャラバンコーヒーの得意先とぽえむの加盟店とのトラブルが原因で始めざるを得ない羽目になってしまったのですから、大誤算もいいところでした。
▶やればやるだけ損◀
幸い、配送センター兼事務所として、私の家内の実家の持家がちょうどおソバ屋さんに貸してあったのが戻って来たので権利金・敷金なしで借りられたので助かりましたが、車輌費とか配送関係の人件費とか、その後の経費の増加は加盟店の少ないチェーン本部として頭の痛い問題でした。
その上、本部の商品資材の取扱い高も少なく、スケールメリットを生かして安く仕入れるような態勢じゃありませんでしたので、商品や資材を扱えば扱うほど損をするといったような状態でした。
コスト分だけのマージンを本部から供給する品物にかけると、ちょうどマージン分だけ市価より高くなってしまうというのが実情だったので、損をしてもいたしかたがなかったのです。
おまけに、加盟金も当時は5万円とベラボウに安かったので、開店があると開店に費やした分だけ赤字になるという大変な経営だったのです。
その上、やっと配送業務になれて来て、そろそろ経済性ということも追求しようとしていた矢先に、オイルショックにぶっつかり、正直に安く仕入れた品物は安く売ったところ、品物を売れば元値よりも高い値段で品物を仕入れるという逆ザヤ現象で、アッというまに数百万円の赤字をかかえる結果となってしまいました。
ちょうどその当時でしたが、社長の私と経理担当役員の黒沢庸五の二人が、キャラバンコーヒーの永田浩平会長と日本珈琲貿易の武田太郎取締役に、経営者としては無謀かつ失格であるとお叱りを受けたことがありました。
考えてみれば出入業者から文句をいわれているのですから割の合わない話なのですが、相手方にすれば、売った品物の代金がとれるかとれないかの境目みたいなものですから、文句の十や二十もいいたかったのは無理もないと思います。
▶反骨がエネルギー◀
私は私なりの目算もあり、あるスケールに達すれば会社もペイすると考えておりましたのでシャクにもさわったのですが、現実に儲かっていないものを偉そうな口を利いても仕方がないと思いましたし「何クソ」という反抗心が私の場合常に仕事のエネルギーに転化されて来ていますので、今となってみれば感謝している次第なのです。
元来、私に限らず土佐人の言うことは、他人から見ると大ボラ吹きに見えるらしく、阿佐ヶ谷に店を開いたときから、私の家内をはじめみんなにホラ吹き扱いをされているので私はもうなれっこになっているのですが、事業の計画などについて相手に説明するときなどは相手が本気にしないので困ってしまいます。
私には、その事業の計画についてビジョンがハッキリしており、どの時点ではどうなり、どの時点でどの位の赤字だがどこまで行けばペイするというようなことがわかっていて、それをキチンと説明しようとしても相手がまともにとらないのには参ります。
私が、コーヒー豆の挽き売りを始めたときも、いくらコーヒーの消費が家庭用に移っていくといっても、そしてそれが5、6年以内にブームになるといっても誰も本気で聞いてくれませんでした。
又、コーヒー専門店が素人にでもできる商売だということでも、私は4年ほど前、ブームが来るずっと前に柴田書店発行の「喫茶店経営」という」雑誌に書いています。
近頃の業界誌などみますと、私が数年前に書いたことをさも新しい考えのように書いてあるのをよく見かけますが、もし本当に新しい考え方だとか商法だとか思っているのなら私の書いたものを読んでいないわけで、ずいぶん不勉強な人だと思います。
それはさておき、私がフランチャイズという商法が将来わが国でも盛んになると思い、展開を計ろうとしたわけですが、その時パートナーとなってもらおうと考えていたキャラバンコーヒーさんが日本珈琲貿易さんが本気にしてくれなかったのには全く困りましたし、かつ大変な誤算でもあったのでした。

ブラジル霜害ウラオモテ


1975年10月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年10月
珈琲共和国1975年10月

①コーヒーで乾杯!

「ブラジル霜害によるコーヒー豆の値上がり……」というニュースが新聞や週刊誌などで大きくとりあげられていますが、ブラジルに数年間生活した私としてはその記事を読んで思わずニヤリとした次第です。
というのは、石油ショック、大豆禁輸等々、このところ資源国ナショナリズムが大いに気勢を上げているのを見て、ブラジルは、一体いつこの流れに乗っかるつもりだろうかと他人事ながら心配していたからなのです。資源国はアメリカを除き、殆どが開発途上国家群で占められています。
中近東諸国が石油の出し惜しみでボロ儲けしているのを、これら開発途上国家群がどんな気持で眺めており、ヤキモキしていたか、それを想像するといささか悲喜劇じみて参るわけです。そんなとき「霜害で値上がり」のニュース、ヤレヤレこれでやっとブラジルも儲け口を見出したか……と、そこはブラジル贔屓をもって任じる小生、思わず愛すべきブラジルのために値上がり前のコーヒーで乾杯してしまったという次第なのです。

②コーヒーはギャンブル?

ブラジルでは農業を「ギャンブル」であると規定しています。特にコーヒー豆生産の賭博性は昔からブラジル人の喜憂の種でした。
ブラジルコーヒーの主産地といえばサンパウロ州とパラナ州、このあたりは高度が海抜千メートル前後とあって、七、八月の冬季に霜の降ることは決して珍しくはありません。もし霜が降らないと・・・大豊作。コーヒー豆は暴落し、その売値はトラックの運搬量さえも出ない・・・というわけです。だから昔からそんな大豊作の年には、政府の指導で山積みされたコーヒー豆を焼いたり海洋に投棄したり、それはそれは悲しい苦労をしていました。
そこにパラナ州の「霜害」です。どんなにかコーヒー生産者たちは喜んだことか。きっとサンバにのって踊り狂いたいような気持だったでしょう。とにかくブラジルのこと、「霜害で値上げ」はあまりにも単純すぎる理由です。私に言わせれば、むしろ過剰生産が不要になっただけでも儲けもの・・・といった最初のイメージでした。
ブラジルは資源国としてコーヒーのほかに鉱物資源がありますが、後者については余程政治情勢に変化が生じない限り、不作という理由が起こりません。
ブラジルで生産されるコーヒー豆はすべて「ブラジル珈琲公団」によって管理され、組織的かつ計画的に売買されています。その点では中近東の石油とほぼ同様で、国際的大資本の石油メジャーならぬコーヒーメジャーといったものが存在しない以上、そのコントロールは石油よりはるかに簡単と見なければなりません。「霜による不作=値上げ」というのはあまりにも図式的すぎるようです。とにかく資源ナショナリズムは遂に珈琲の世界にまで波及したわけです。日本の珈琲業者の皆さん、それに喫茶店業界の皆さん、皆さんのすべてが値上げの理由を握ってヤレヤレということにもなりましょう。

③嘆きの日系珈琲史

今から七十五年前、最初の日本人移民が笠度丸でブラジルに渡って、配置されたのは珈琲畑でした。テント小屋にも等しいバラックに雑居させられ、奴隷にも等しい待遇の下で働かされた彼らは、夜になると自分たちの運命を呪い嘆いたと語られています。そんな生活の中で彼らの希望は≪いつの日か祖国日本に錦を飾って帰国する≫ことしかありませんでした。しかし、それは日本の敗戦ですっかり夢と果てたのでした。
ブラジルで、私は多くの日系の老人から昔のコーヒー園入植時の辛い思い出を聞かされました。それはこの短い文章ではとても書き尽くせない内容です。いつか私はこの珈琲共和国に、それらの話を書きたいと思っています。
一杯の香り高い珈琲を啜るとき、わたしはいつもあのブラジルの日系老人たちから聞かされた昔話を想い浮かべるのです。真白な湯気が一瞬とぎれたカップの中のコーヒー色の面に、当時の日系移民たちの経た苦しみの地獄絵図が描かれているように思えてならないのです。よほど彼らの話が私の心の奥底深く印象づけられているのでしょう。

④ビーバ・カフェ!

日系移民の社会的地位は大きく向上し、かつては奴隷として入植した珈琲園の経営者層となっている人も少なくはありません。私は、地球の反対側から遠くブラジルの日系の人々のイメージを想い浮かべるとき、今度のコーヒー豆値上げはどうか彼らに最も厚い恵みの機会となりますように、と願わずにはいられません。とにかく商社や政府という大組織だけへの恵みの機会となることについては、お断りです。
あの珈琲の茶色の液体には、言語では表現できないほどの悲しくもニガい人間の歴史が秘められているのですから……。
(山下規嘉)

珈琲屋風雲録 第四話


1975年10月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年10月
珈琲共和国1975年10月

-理解されなかったフランチャイズシステム-
▶ホラ吹き?眉ツバ?◀
最近はわが国でもフランチャイズシステムという言葉が盛んに使われていますが、私がキャラバンコーヒーさんに珈琲専門店のフランチャイズチェーンの展開を共同でやろうともちかけた三年半前は、まだまだ言葉自体も普及しておらず、フランチャイズチェーンと称する企業なども、マルチ商法まがいのものや見込み客の数だけで販売権を切売りする山師まがいのものが多く、ごく一部の企業を除いては、良い方で商品の卸し屋といった具合でしたから、私たちが現在行っているようなチェーン展開のあり方など、誰も想像できなかっただろうと思います。
ですから、私がフランチャイズチェーンの将来性を説き、今ぽえむチェーンがあるような姿を未来像として具体的に話をしても、まるで絵空事か大ボラを聞くような気しかしなかったのではないかと推察します。
キャラバンさんの方でも一応は私の顔を立てて、役員会や営業所長を含めて会議を何回か聞いてくださったのですが、「どうも山内の話は眉ツバものだ」というのが本音だったのではないでしょうか。
そのうちに、私の持前の気の短さ「説明してもわからない相手と一緒に仕事をしても仕方がない」と、ジョイントベンチャーを断わってしまいました。
正直な話、私の最も信頼すべき日珈販の社員たちにしても「ホラ話」だと思っていたというのですから、そんな話をもってジョイントベンチャーを頼みにいった方がむりなのかもしれません。

▶助け舟現わる‥◀
ところで、私という人間は得な性分といえようか、無茶苦茶な人間なのでかえって友人や取引先の人に恵まれるというのか、必ず助け舟が現われます。
そのときも救世主が現われたのですが、それがこともあろうにキャラバンコーヒーの永田勇作社長だったのです。
永田社長という人は、社外的には意外な位目立たない人ですが、社内や得意先からは頼りにされている人で、一見ヨワヨワしそうにみえる外見ながら外柔内剛の人柄は、若いときから社内でもボス!ボス!と慕われています。
その永田社長が、意地を張ってジョイントベンチャーを断わって、その実は困りきっている私を助けてくれたのです。
たとえば支払いを手形にしてくれたり、手形のサイトを次から次へと伸ばしてくれたり、また日珈販でなく山内企画という私個人的な会社に、投資でも貸付でもよいからといって200万円ばかり融通してくれたりしました。
私は口先では「日珈販に投資しないと今に後悔するぞ」などと言っていましたが、とても感謝しておりました。
そのようないきさつがあったので、日珈販はキャラバンコーヒーの子会社であるかのようにいわれてきましたが、心情的にはキャラバンコーヒーと日珈販は密接な関係にありましたが、会社対会社の関係は全く無関係という妙なヤヤコしい関係にあったわけです。
しかし、このような関係も、ドトールコーヒーさんと取引きをするにあたり、私の家内がキャラバンさんの持分を買取りましたので、現在は完全に解消されています。

さて、そんな具合で強力なパートナーもなく発足した日珈販の前途は全く絶望的なもので、超楽天的といえようか、無茶苦茶のカタマリといえようか、とにかく意気のみ高い山内大社長さんのホラだけが鳴りわたっているという有様だったのです。
そのような情勢のとき、どう思ったのか日本珈琲貿易の武田太郎重役から「自社も出資したい」という話が持ち込まれたのです。