「コーヒー党宣言」カテゴリーアーカイブ

1972年4月~1975年4月 (株)日本珈琲販売共同機構 創業者 故 山内豊之氏 コラム 全36号

珈琲野郎のコーヒー党宣言 コーヒー党には知る権利がある


1973年3月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
珈琲共和国1973年3月

 私がコーヒー党宣言を書きはじめたのが、昨年の四月号でしたからこの号で一年間書き続けたことになります。
 この間に世界的にはベトナムの和平や日本には二度にわたる円に切上げなど、またコーヒー業界ではコーヒーの輸入価格の高騰や共同焙煎工場などの協業化、コーヒー売価の値上げなど話題の多い一年でした。
 そういった動きの中で、私はコーヒー党の立場に立って、コーヒー党として当然知るべき権利を行使しようとすればするほど、コーヒー業界の秘密主義の壁の厚さに驚かされてしまいます。
 私が何か書こうとすると永年取引を重ねてきた相手であっても、まるで貝になったように口を閉じてしまいます。また少しでも彼等コーヒー卸業者達に不利なことでも書こうものなら、その情報を誰が漏らしたかなどという次元の低い詮索ばかりして、自分の誤りを正そうという反省の気配は全くありません。
 まるで沖縄返還交渉における外務省の機密漏洩事件で、政府が国民に嘘をついていたかどうかという点はいつのまにかウヤムヤにしてしまって、西山記者と蓮見事務官に情交があったとかないとかいう話だけがクローズアップされているのと同じことです。
 まして、コーヒー業界における秘密などというものは全く秘密にしておく根拠なんてありません。
 公害企業が害毒を平気でたれ流しておいて、その真偽を確かめようとすると、企業の秘密を楯に調査に応じないのと同様、全く理不尽なことなのです。
 企業の秘密というものは例えばコーヒーの配合の割合とか、焙煎温度の調整の仕方など企業一つ一つが持っている秘密であって、ゴットホットの焙煎機の一般的性能などというのは(カタログ的知識)秘密でもなんでもありません。まして自分の会社の実力をPRしようとするときは、こんなに高性能な設備があるとマスコミなどに発表しておきながら、その欠点を指摘されると企業の秘密を暴露したと怒るのは筋違いです。
 日本の場合はまだ消費者運動が徹底していませんから、コーヒー豆など素人にはよく判らないような商品は適当にゴマカシテ売ることができるでしょうが、アメリカあたりでは間違った宣伝をしたり、宣伝の一部に消費者をあざむくような部分があった場合は、その宣伝に要した費用の三分の一の費用をかけて訂正広告を行うことが義務づけられていてその判定の基準も非常に厳しいそうです。
 広告においてもその位ですから、もし対面販売や品質表示において消費者を偽るような説明を行ったとしたら、その企業は徹底的な糾断を覚悟しなければならないそうです。
 日本のコーヒー業界も、もうこの辺でキワモノ商売から足を洗って、正々堂々と胸を張るような商売をしないと外資系や新興勢力にまたたく間に制圧されてしまいます。自動車のホンダが明治屋と組んでACTコーヒーというレギュラー缶を売り出しましたが、このように従来の業者よりも、資力・企画力に秀れた業者が次々と進出してくることになると、仲間うちでヒソヒソやっているところは、そのうちダメになってしまうでしょう。
 また業務用コーヒーのお得意先だって、今まではいわば水商売のマネージャーマスターの相手だったわけですが、これからは一流企業も飲食業に進出していますから、中途半端な説明なんか通らなくなります。
 私は、私が喫茶店の支配人だった頃、取引先の大手コーヒー会社の課長で現在印刷屋さんとして私のところへ出入りしている田村三郎君とよく話すのですが、「かつて取引のあったコーヒー屋さん達が、さんざんダマシテくれたお陰で私もコーヒー業界に詳しくなった。だから、かつての取引先は私の先生だと感謝しなければいけないのだ」と。
 その度に彼は苦笑いしています。
 だまされるのは、やはりそれだけ本人が不勉強だからです。少なくともプロである以上ダマサレルこと自体恥ずかしいことです。
 もっとも現在の取引先だって結構人をだましてきましたから、もうだまされないつもりでも、もしかしたらやられているかもしれませんが私も大いに勉強して絶対ダマサレないようにしたいと思っています。
 今年の四月で私が喫茶業に足を踏み入れて満十年になります。またコーヒー党宣言も二年目に入りますので来月号以後も一層頑張ってコーヒー党の知る権利を行使すべく書き続けていきたいと思います。


珈琲野郎のコーヒー党宣言 珈琲の味を悪くするのは誰か?


1973年4月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

一、専門家のいない
珈琲専門店
 コーヒー党宣言も本号でいよいよ2年目に入りますが、コーヒーを取巻く国際的、国内的環境は共に厳しさを増しているようです。
 一方、昨年あたりから急速にブームを呼んでいる町の珈琲専門店も、その数を増しているようですが、この方は、その人気という美酒に溺れて、コーヒーに関する種々の厳しい要因には気付いていないようです。
 その証拠に、相も変わらず珈琲専門店といえば、サイホンをカウンターの上に並べ、メニューに数種類のストレートコーヒーとコーヒーアラカルトを加え、ただ店先にコーヒー豆やコーヒー器具を陳列してあるだけの店が、次々に生まれています。
 そんな店で試しに少しばかり専門的な質問をしようものならとんでもない答えが返ってくるのが常で、たまりかねて私が本当のことを教えると、この客はオレの店にケチをつけに来たのかという顔をされます。ですから、私はもうこの頃はそのような大人気のないことはしないで、もっぱら私達のチェーンのマニュアル作りのモルモット代わりにいろいろな質問をさせて頂き、その珍妙なる解答を大いに参考にさせて頂いています。
二、業者を殺す
  業界近代化
 さて、最近のコーヒー業界の動きについて、私にはどうもわからないことがあります。その第一は、毎度目の敵にいている共同焙煎工場のことです。
 私達喫茶店の業者は、今日まで少なくとも自分の店独自の味を出すということ、つまり個性を売り物にしてきました。その当然のなりゆきとして、取引先の焙煎業者を選ぶ基準にその業者の個性というものを重視してきたはずです。
 一方、業者にしても、独自の技術を持つことを売物にしてきたはずです。すなわち、業者の技術というものは、その業者のキャリアであり、訓練された職人であったはずです。それを武器にして、業者は独自の配合を行ない、焙煎機を選んで独自の焙煎加工を行ってきたはずです。
 ところが、共同焙煎にするということになると、業者はまず独自の焙煎機を持つことができなくなります。第二に独自の職人も持てません。すなわち、焙煎業者はすでに焙煎業者でなくなってしまうということです。
こう私が申しあげると、業者の方は我々独自の配合があるとおっしゃるかも知れませんが、豆の配合なんてものは、私のような喫茶店のオヤジ風情でもできることです。そんなことよりも焙煎こそ豆の味を決めるということは、業者の方々が十分に存じているはずです。
 私にいわせれば、共同焙煎などということは、業界近代化という美名のもとに行われる企業の統合、乗取りです。個性的な独自の商品を持たない業者たちは結局、値段や商品の無料提供や配送回数の増加等販売コストの増加することで競合しなければならなくなります。こうなれば、共同焙煎で得た製造コストの減少なんてメリットはたちまちふっとんで、残るのは業績の悪化だけです。そして次に来るのは会社の倒産か、共同焙煎工場設立にからむ大手資本への吸収・系列化ということになり、親の代から続いた味の名門も終わりを告げることになるわけです。
 我々コーヒー党にとって焙煎業者が倒産しようが合併されようが関係のないことですが、折角楽しんできた個性的な味が失われて文明の進化?と共に砂漠化しつつある我々の生活が、またまたコーヒーにまで及んで、規格化された品物を飲まされるのかと思うとウンザリしてしまいます。
 もっとも、焙煎業界における近代化の名のもとに大手資本の支配体制の確立に手を貸しているのは焙煎業者だけではありません。珈琲専門店の看板をかかげながら、取扱い商品に対する知識が皆無で、取引き先の言いなりになっている店の態度こそ責められるべきです。店の側に商品を選別するだけの能力があれば、業者のいい加減なやり方を認めるはずがないし、業者だって独自の商品作りにもっと真剣になるはずです。
三、味音痴のコーヒー通
 もっと話を進めれば、能書きばかり達者で味音痴のコーヒー通が多くて、いい加減なコーヒー専門店でも立派に通用するからだということになりますが、それでは我々コーヒー党を本当のコーヒー通にするだけの美味しいコーヒーを飲ませてくれたかということになると、これは全くニワトリとタマゴのどちらが先かみたいな話になります。
 いずれにせよ美味しいコーヒーが飲みたいですね。

珈琲野郎のコーヒー党宣言 コーヒー専門店は食品産業である


1973年5月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
kyowakoku1973-5-150-240

【小田急、コーヒーの香を拒否する】

日珈販が、コーヒー売店の実験店として計画していた小田急経堂ビルショッピングタウンへの出店が、小田急側の拒否により中止となりました。
 私は小田急さんから拒否された理由については、天下の小田急さんのことですから、私共のようなチッポケな会社に貸すことが気に入らなくても全く文句をいう筋合いではないとご理解申し上げているわけですが、その拒否の理由が気に入りません。拒否の理由は「コ―ヒーの臭いが、他の業種に迷惑を及ぼす」というのです。特に、商店街の化粧品屋さんが反対なさったということなのですが、これはますます納得できません。
 一体、コーヒーの香りというものは、他に迷惑を及ぼすものなのでしょうか。
 最近我が国のコーヒーの消費量は急速に伸びて、遂に世界で7番目の消費国になったといいます。つまりそれだけ沢山の方がコーヒーを愛飲されているということになります。
 喫茶店で飲まれるばかりでなく、家庭でもどんどん飲まれる時代です。私共日珈販のチェーン全体のコーヒー販売量をみても、月間取扱い量1500キロのうちその65パーセントにあたる1000キロは売店で売られています。ということは、コーヒーの量でいえば65パーセントは家庭で飲まれているということなのです。しかもこの傾向は一層強くなり、近いうちに家庭で飲むコーヒーは全消費量の70パーセントを越えるだろうと予想されています。
 このように大衆の中に浸透し、定着化しつつあるコーヒーの香りを、他に迷惑を及ぼすものとして取り扱われることは、コーヒー党として絶対に納得するわけにはいかないのです。
 化粧品の合成された匂いが、コーヒーの天然の香気よりも良質だという考え方は間違っていると思いますし、そのように考えるから有害な着色料の入った食品や毒入り油を食べさせられたりするのだと思います。

【コ―ヒー専門店とは何か】

 さて、コーヒーの不当な取り扱いについての抗議はこの位にして、この商談に関連して考えさせられたのは、コーヒー専門店というと喫茶店の一種であるという考えが非常に強いということです。
 恐らくこれは、コーヒー専門店を経営なさっている方たちについてもいえるのではないかと思うのですが、もうそろそろコーヒー専門店も先に述べたように、コーヒー自体が商品としても十分に一人立ちできるようになってきたわけですから、食品産業だという認識に立って考えてごらんになってもいいんじゃないかと思います。
 考えてみれば、コーヒー豆の消費量からみれば、家庭用のほうが多くなりつつあるというのに、コーヒー専門店といえば、依然としてコーヒーを飲ませる喫茶店というのでは、どうも話の筋道が立たないような気がします。
 今回の小田急さんの問題にしてみても、コーヒー専門店がお茶屋さんや乾物屋さんと同じ業種なんだという認識を関係者の方がお持ちになれば、また別の結果も得られたかと思います。
 結局は、われわれコーヒー専門店を経営するものが目先の商売しか考えないでコーヒー専門の喫茶店で甘んじていたり、焙煎業者にしても、家庭用・業務用各々の将来を見透かしていながらその日暮しに気をとられて、コーヒー業界全体の育成という業界の死命を制する問題に取組まないでいると、今に大変なことになってしまいます。
 私にいわせれば、特に焙煎業者の方は、共同焙煎だ、製造の合理化だという美名の下に行われる商社の市場支配の手口にひっかからないで、もっと、業界のリーダーとして実のある仕事をしていかないと、焙煎業者自体の存在価値がなくなってきます。
 商社といえば、コーヒー業界は商社の市場支配の手口のサンプルみたいなものです。まず価格の上昇を押さえて弱小業者を潰し、市場占有率が大きくなると今度は価格を自由に操作するというやり口が、そのまま適用されているようです。
 コーヒー業界は、いわば無菌状態のところへ病原菌が入って来るようなもので、その抵抗力のなさが心配です。商社の市場支配になると、商社は価格だけでなく品質まで支配するのは明らかで、そうなると採算のみを重視した不味いお仕着せのコーヒーを飲まされることになるわけで、それがわれわれコーヒー党には我慢できません。
 そうならないために、焙煎業者やコーヒー専門店の方たちには、大いに頑張って頂きたいと思います。

珈琲野郎のコーヒー党宣言 コーヒー豆を売るより、管理を売ろう!!


1973年6月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
kyowakoku1973-6-150-240

【家庭のコーヒーは豆が勝負】

私の主宰する日珈販の加盟店では、当社の発売している高級珈琲豆「まごころ」をブレンドコーヒーで100gあたり220円で販売しています。
 通常デパートで販売のコーヒー豆は普通のブレンドで120円~160円位ですから、ずいぶん高いものを売っているわけです。
 しかしその高いコーヒー豆がその辺の安物よりもはるかに多く売れています。
 それも、値段さえ高ければ高級品だろうという単純な高級品嗜好に乗っかって売れているのではけっしてありません。なぜならば、値打ちのよくわからない美術品・宝石ならいざ知らず、コーヒーは食料品ですから必ず皆さんの口の中にはいってその味をためすことができるわけですから、高いだけの値打ちがあるかどうかは、判断できます。
 しかも、最近次々と開店しているかっこうばかりの珈琲専門店と違って、家庭で飲むコーヒー材料となりますと、そんな雰囲気でのごまかしはききません。 
 ですから、私達は胸を張って品物が良いから売れるのだと大いばりで売っていられるのです。

【100kgの豆を廃棄処分にする】

 さて、日珈販の加盟店で売っているコーヒーの品物はどう良いのでしょうか?
 まず単純に考えられることは、原料豆の品質の違いです。確かに品質は違います。だが、そんなに値が違うほどほかのものと品質が違うわけではありません。
 だとすると加工法でしょうか。それは大いにちがいます。小さなロースターによる手造りのコーヒー豆ですから風味も違うしいわゆるコーヒー豆の味がします。
 しかし、品質の良い豆を手造りで作っただけでは本当に美味しい豆をコーヒー党の皆さんにお届けすることはできないのです。
 最近日珈販のある加盟店で100kg以上の豆を廃棄処分にしました。理由は焙煎後の保存期間を越えたからです。
 このように販売店が、積極的に自分の店の豆を管理し、たえず美味しい豆を売ろうという姿勢がなければコーヒー党の皆様に美味しいコーヒーを飲んでいただけないのです。
 日珈販の加盟契約書第5条第8項には「加盟店は商品及び指定メニューの品質の維持に関して細心の注意を払わなければならない。また、鮮度を生命とする商品及び指定メニューに関しては、本部の指示する期限以内に販売しなければならない。在庫管理不行き届きのため限度を越えてストックされたものに関しては本部はその廃棄を命ずることができる。この場合、廃棄されたものの代価は加盟店の負担とする」と規定されており、自発的に管理を行わない店に関しては本部は強制的に管理を行う権限を有しています。
 幸いなことに、このような権限を本部が行使したことは一度もありません。

【安かろう、悪かろうのデパートのコーヒー豆】

 デパートやスーパーマーケットあたりでも、私が見て回りますと平気で変質したコーヒー豆を陳列しているのをよく見かけます。
 デパートさんあたりは、国民的感情を重視してとやらで、値段を安くすることばかり気を使って、腐りかけのコーヒー豆や、安物の粗悪品をタップリ混ぜ合わせたコーヒー豆を得々としてお売りになっているようですが、コーヒーは日常品化しつつある食品ですから、フランスの無名の画家の絵を雑貨として輸入して「フランス名画展」とやら銘打って売るようなわけにはいかないのです。だからもう少し良心的な売り方をしてもらいたいものです。
 もっとも、日本のデパートやスーパーにはマーチャンダイザーはいなくて仕入れ屋しかいないそうですから、どだい専門的な知識を求めるのが無理なのでしょうが、それならそれでデパートやスーパーに納品している焙煎業者は得意先におもねってばかりいないで、もっと正しいことを教えてやるべきではないでしょうか。そうしないといまに自分の手で墓穴を掘ってしまうことになるでしょう。
 またもう一つ見方を変えれば、食品専門店と自他共に認め、高級品を売ることを誇りにしている青山・国立・軽井沢のK屋さんあたりでも、100g140円程度のブレンドコーヒーを自社ブレンドとして売っているくらいですから、われわれ本物のコーヒー専門店以外にそのような高度の販売方法を求める方が無理かもしれません。
 だとすると、当分の間、われわれにとってはありがたいことですが、加盟店のない地区のコーヒー党の方には全くお気の毒なことですね。

珈琲野郎のコーヒー宣言 コーヒーにもマスコミ公害!!


1973年7月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より
kyowakoku1973-7-150-240

【デパートだけが安い??】

 去る5月の読売新聞の朝刊婦人欄に「コーヒーの原価は9円」という見出しの記事が掲載された。
 この記事の中で、「安いのはデパートのコーヒー売場だけ」という私の談話が伝えられていた。
 じつをいうとこの談話はこのあとに「デパートが売値を上げさせてくれないので、納入業者は品質の悪い豆を混入して何とか原価を低くしようとしている。デパートの豆が安いのにはそんなカラクリがあるのだ」と続きがあったのである。
 結果的にみると、私の談話はコマ切れになり、私の思想と全く逆の方向を意味するものとなってしまったわけである。
 私にとってこの記事はすこぶる不本意であるが、天下の読売新聞サマにイチャモンをつけても勝ち目がないと思い、かつわれわれ庶民としては大新聞サマに名前を載せて頂くだけでありがたいと思わなければならないと思い、泣き寝入りすることにしたといえばかわいげがあるのだが、本当のことをいうとこのような加害者の立場は私にも大いに身に覚えがあるので文句がつけられなかったのである

【土佐の仇、江戸で討たれる】

 私がまだ高知大学の学生だったころ、私は学業そっちのけで放送記者のまねごとばかりやっていた。
 今では立派な放送局となった高知放送も当時はまだ駆け出しのラジオ局で、私のようなマスコミかぶれした学生なんかも、スポンサーのつかない報道番組なんかを結構制作させてくれたものである。
 今から思えば全くのひや汗ものだが、当時は正義の味方を自負して厳正中立なる番組を作ったものである。
 すなわち、その厳正中立というものは、自分の思想と合致するものであり、それにそぐわない意見があれば、容赦なくテープを編集して、自分の思想と合致するように作ったものである。新聞記事ならば、記者の間違いということもあろうが、ラジオだと本人の声を聞かせるので第三者に弁明の余地がないので罪が重い。
 そんな訳だから、いわば「土佐の仇を江戸で討たれた」ようなものであると思っていた。

【広告料で記事は変わる??】

 ところが、2,3日経って某新聞社のデスクをしている友人に会ってその話をしたら、彼のいうには、コーヒーなどということを取材するのは駆け出しの記者で、ベテランはトレーニングのつもりで若手にやらせている。だから、彼らが書いてきた原稿をデスクが大体において反対の意味に書き直すのが常識なんだろう・・・・・・であった。
 しかし、私の目から見ると、取材に来られたY記者はそんな若僧のようには見えなかったし、非常に理解力もあったし、世界的なコーヒー事情などについてもよく書かれていたので恐らくそんなことはなかったと思う。たぶん好意的に考えればデパートさんは沢山の広告を出しておられるのでその点の配慮をなさったのではないだろうか。経済・社会面では、デパート商法などについてずいぶん厳しくやっておられるようだから、もしかしたら婦人欄ではその埋め合わせをなさったのではないだろうか、などと考えられるが、どっちにしろ私がダシに使われるのはあまりいただけない。

【マスコミがもたらすもの】

 日本人はなぜかマスコミは厳正中立でなければならないと思っていて、マスコミに報じられることはすべて本当だと信じてしまう。
 外国だと、新聞だっていろいろな主義主張を公然と唱えていて、大衆もそれをよく取捨選択しているが、日本のマスコミはなぜか厳正中立を売り物にしているので、間違った報道は影響が大きい。
 だいぶ前にNHKの「今日は奥さん」で、コーヒーと紅茶の話を取り上げ、出演されたコーヒー振興委員会のKさんがコーヒーの淹れ方を説明されたとき、濃いコーヒーを作るには2度こせばいいと話されたのを見て、心臓が凍るような思いをした。
 おそらくこのテレビをご覧になった世の奥様方は、NHKのテレビでいったことだから間違いがないと思っていらっしゃると思う。
 こんなことをされては、われわれがいくら美味しいコーヒーを送り出そうと努力しても、まったくメチャメチャにされてしまう。
 コーヒー業界もようやく今までのトリッキーな商法から脱皮して、れっきとした食品産業として大きな飛躍を遂げようとしているがそんなときだけに、マスコミ関係者はひとつ、たかがコーヒーのことではあるが慎重に真実を報道してもらいたいものである。