珈琲屋風雲録 第六話


1975年12月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年12月
珈琲共和国1975年12月

メリタ普及の意味するもの

メリタの感謝状
私事になって恐縮ですが、去る10月21日、私は東京・六本木にあるメリタジャパン社に招かれて、メリタ本社の永年にわたるメリタ製品販売の功績に対して、副社長並びに鈴木真メリタジャパン社長連名の感謝状とメリタ社主からの記念品をいただきました。
この記念品は、メリタ社がベルリンに新しく建設した工場で一番最初にすいたコーヒーフィルター用の瀘紙に、古いベルリンの市街図を印刷したもので、たいへん価値のあるものです。
私は、メリタ製品が日本珈琲貿易社によってわが国に導入されて以来、そのすぐれた機能に惚れ込んで、他のコーヒー器具には目もくれず、一筋にメリタの普及に心を傾けてきましたから、今回感謝状をいただいたことは、その努力が報いられたものとたいへん嬉しく思っています。
私は、メリタが家庭用コーヒーを普及させるのには最もすぐれたコーヒー器具だと考えておりますし、またわが国のコーヒー業界を一部の業者の独占物から、まともな商売に改革させるためには、家庭用コーヒーの普及以外に方法がないと考えておりますので、メリタから金をもらっているのではないかと陰口を叩かれるほどメリタの肩を持ち、メリタの優秀性について業界誌などに書きつづけてきたのです。
掛値無しに考えても、私がメリタの優秀性についてマスコミに書いたり書かせたりしたものを宣伝広告費として計算すれば、1億円以上になるでしょう。
ですから、私やキャラバンコーヒー社、そして日本珈琲貿易社などの努力がなかったら、こんなに早くメリタ社が日本へ進出できなかったといっても過言ではないと思います。

日珈販オーナーは珈琲業者にあらず?
ところで、それにしてはメリタ社の私に対する態度はつれないものでした。つまり、私がぽえむというコーヒー専門店の本部のオーナーで、焙煎業者でないために、メリタ社では私を無視してきたのです。
もっともこれはメリタ社が悪いのではなく、コーヒー業界のタブー(商社や生豆問屋や焙煎業者のみが仲間うちの商売をする)を慮ったもので、もしメリタ社がおおっぴらに私共と直接取引でもしようものなら、製品ボイコットをしかねないような空気がコーヒー業界全体を支配しているからなのですが、私共にすれば、メリタ普及の功労者を無視してニワカメリタ教信者を大事にするやり方は気に入りませんでしたし、少なくともわが国のコーヒー業界を革新してくれるパワーの一つだと信じていただけにがっかりしたというのが偽りのない気持でした。
しかし、今回メリタ社が私に感謝状と記念品を下さったおかげで、なんとなくそのモヤモヤした気分も吹っ飛んでしまいましたのでまた大いにはり切ってメリタ製品を売りまくろうと思っています。

メリタ普及の真意
さて、このメリタ製品を私に会わせてくれた日本珈琲貿易の武田社長ですが、過日メリタ主催の勉強会『丘上会』で「メリタの普及こそわが国のレギュラーコーヒーの普及を促進するものであり、ひいてはわが国珈琲業界の発展に寄与するものであると信じてメリタの導入を行なった」そして「今回メリタの輸入総代理店をメリタジャパンにゆずったのも、その方がより広く多くの人たちにメリタを使ってもらうことができ、その方がより業界のためになると考えたからである」と話されたそうですが、私も全く同感です。私はアウトサイダーなので丘上会には招かれませんでしたので直接全部のご意見を拝聴することはできませんでしたが、日頃の武田社長の言動から、十分にその真意を推察することができました。

必要な先見性と決断力
このような先見性と決断力を兼ね備えた武田社長あってのことでわが社と日本珈琲貿易社のジョイントベンチャーの話は進行したのですが、現実の問題としてはなかなかスムーズにはいかなかったのです。
まず第一にトップがいくら先見性に基づいた決断を下しても、カンジンの現場は業界のタブーという鎖にガンジガラメに縛りあげられていて動きがつかなかったというわけで、お互いに株を持ち合うという形式上の関係ができても、一向に両者の間柄は親密の度合を深めていくというようなわけにはいかなかったのです。
それでもまだ、日本珈琲貿易さんがメリタの総代理店である場合はメリタの販売についての利害関係がありましたから、まだまだ提携の理由もありましたが、今日のように日本珈琲貿易さんが一代理店となり、私共の買っている特約店が他の代理店から仕入れているなどということになってしまうと、日本珈琲貿易さんが私共と直取引をしないかぎり何のメリットもないということになってしまいますが、これも私共の方から働きかけても駄目なようですから、今やお手上げといった状態なのです。
私は、今やもう焙煎業者はメーカーと問屋に機能分化する時期に来ており、そして分化して考えれば私共チェーン店の本部も焙煎業者も大して変わりないと思うのですが、日本珈琲貿易さんをはじめ、石光商事さん、ワタルさんなどの生豆問屋さんには、そういうタブーに挑戦する勇気がなさそうです。
そうなると、ますますUCCさんあたりのようにユニークで決断力のある企業の方が、シェアを伸ばしていくのではないかと考えたりしているのです。

珈琲通Mさんのお話


1975年12月1日コーヒー党の機関誌「珈琲共和国」より

珈琲共和国1975年12月
珈琲共和国1975年12月

私の友人にMさんという食通をもって自認している人がいます。ご多聞にもれずMさんは、フランス料理はあそこ、和食ならこことごひいきの店は決まっていて、めったな店へご招待しようものなら大恥をかくという大変なお方なのです。
そのMさんが大の苦手としている人物が一人だけあります。それが私なのです。
私がまだ阿佐ヶ谷西店でコーヒーを毎日淹れていた5年半ほど前、Mさんは常連さんとして私の店に毎日足を運んで下さいました。
Mさんはある有名な大学の教授で、食通ぶりをオーバーに主張される以外には全くの好人物で、私も家内も、そして店の常連さんもすぐ仲良しになったのですが、ただ一点だけ食通(珈琲通)を振回されることが、我々の悩みの種でした。ご自分が召し上がるコーヒーについていろいろおっしゃるのはよいのですが、他の人のコーヒーの飲み方、そのメニューの選び方にまで一々文句をつけるのですから他の常連さんたちはたまったものではありません。陰で「M公害」などと言っていた間はよかったのですが、顔見知りがふえ、新密度が増すにつれてその博識ぶりはますます猛威をふるい、しまいにはMさんがいるとあとで来るといって帰る人まで出てきたのです。
そうなると、私も営業にかかわるので、申し訳ないけれどMさんの珈琲通の鼻をペシャンコにする必要があると判断し、M公害撤去作戦に乗り出したのでした。
都合のよいことに、Mさんは珈琲通としてブルーマウンテンNo.1しか飲まないと称していましたから、当分の間毎日ニセモノのブルーマウンテンを飲ませて珈琲通としての自惚れをコテンパンにやっつけてやろうと思いました。
それから10日間ばかり、私はMさんにニセモノのブルーマウンテンを提供しました。あんまり違いのあるものではすぐバレるのでメキシコ、コスタリカ、フォンデュラスなどアラビカ種の水洗式コーヒーを数種類選んで、毎日ニセ・ブルーマウンテンを飲ませたのです。
そうとは知らずMさんは「さすがブルーマウンテンNo.1の味は違うなア」などと言いながら、さも美味しそうにコーヒーを飲んでいきます。正直な話、あんまり率直に美味しがられるので本当は我々のたくらみを知っていて、トボケているのではないかとも思いました。家内などは、もういい加減にしたらと言い出したり、Mさんが店に入ってくると急にふき出して、当時住居としていた2階へ駆け上がったり、人をだますのも楽ではないなという思いもしました。そして、いよいよ我々がMさんに真実を告げる日が来ました。
ところが、いざとなると「貴方がこの10日間、ブルーマウンテンだと美味しがっていたコーヒーは全部ニセモノだ」などとは言えそうにもありません。何しろ相手は率直にホンモノだと信じているのですから……。
しかし、そうは言ってはおれません。断固実行しなければ、我々はもちろん常連一同もM公害から解放されないのですから。
×      ×      ×
Mさんは私の話をじっと聞いていました。この10日間ニセモノばかり飲ませたことも、みんながMさんのコーヒーに関するウンチクをM公害と称して迷惑に感じていることも、またM公害さえなければMさんはとても良い友人だと話していることも……。Mさんは一言も口をはさまず私の話を聞いていました。
最後に私は、今までみんなニセモノだったからこの10日間のコーヒー代を返すとお金を差し出しました。するとMさんは急に「それはいけない!!」と大きな声で言って、お金を私に押しもどしました。「僕はブルーマウンテンだと思って飲んでいたんだ!!そしてとても美味しかった。満足してるんだ!!だから、それはそれでいいんだ!!」
そして、てれ臭そうな笑いを浮かべながら「本当のことをいうと僕は何も判らないんだよ、コーヒーの事は……。でもいつのまにか珈琲通にさせられてね。ひっこみがつかなくなってね」というと、大きく伸びをして「マスター、ジャーマンをくれよ!!」と言ったのです。
それ以来、カレはジャーマン党になりました。「ジャーマンなら安いし、美味しいものね」。
×      ×      ×
2.、3日前、私は新宿でバッタリMさんに会いました。そして、カレの行きつけのコーヒー専門店へ連れていかれました。ところが、そこでMさんは珈琲通ぶりを発揮しているではありませんか。私が変な顔をしているとMさんがウインクしながら言いました。「新しいバーテンが入るとね、ここのマスターとグルで教育するのさ。ところでマスターを紹介するよ」
指さす方向を見て私はびっくりしました。そのマスターこそ、私と一緒にMさんをたぶらかす企みをした当時の大学生の常連さんだったのです。せ